ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

こんな雑談をしてきたその9(正岡子規 額田王)

授業の脱線シリーズも結構な分量になってきて、我ながら決して受験には出ないようなことばかり、まぁぐだぐだと随分語ってきたのものだと、改めて呆れてしまいます。でも脱線はまだまだ続きます。(おいおい)

さて、前回は正岡子規石川啄木の名前に関しての雑談を載せましたが、教科書の教材の短歌「紅の二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」について、解説文では助詞の「の」の繰り返しが生み出すリズムの良さについて説明されています。

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薔薇のとげを「針」と表現し、「針やはらかに」と続けたところが巧みです。新芽のとげのみずみずしく柔らかな様子が伝わってきます。「くれなゐの」「薔薇の芽の」「春雨の」と、助詞「の」が続いていることも、歌に優しさを添えています。(教科書)ところで、以前から気になっていたのですが、それもそうなんでしょうけど、確か以前の教科書では「は」りやはらかに「は」るさめの振る、の方の「は」の繰り返しに着目していたと記憶しています。そしてそころから、「それだけなのかな?」とも思っていました。

というのは個人的に、「ばら」→「はり」→「はる」→「ふる」の四語の語感の流れが似ていることが、この短歌の妙な語呂の良さを生み出しているのではないか?と感じていたからです。ハ行とラ行の組み合わせの妙は、ひょっとしたら偶然の産物なのかもしれませんが、もしこれが意図的なものだったら、まさに天才的な織り込み方だし、またもし意図的だったとしたら、気づいてあげることが読者としてのマナーかな、と思うわけです。とりあえずこのような、調べればわかるのかどうかわからない微妙な妄想?についても、「ポンコツ説として」授業の中で話したりします。

他にも、「多分こうなんじゃないかと思ってるけどちょっと調べても確信が持てない、けれども生徒には言いたい」教材があります。例えば額田王の短歌「君待つと我が恋ひ居れば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」についてです。

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教科書の口語訳では、「あなたのおいでを待って私が恋しく思っておりますと、我が家の戸口のすだれを動かして、秋の風が吹いております。」・・・となっています。これについての異論は一切ありません。(・∀・)キター!と思ったら、何のことはない風のイタズラで(´・ω・`)ショボーンという、まあ生徒にも(特に女子には)よくわかりやすい短歌です。(ニヤニヤするのは圧倒的に女子が多いですw)

ただ、これだけではつまらないのでポンコツ説」として、「誰も言っていないけど実はこうなんじゃないか?」という口語訳をブッコミます。曰く・・・

「~秋の風が吹いております。(以下ポンコツ説)待っていてもあなたは来ない・・・ひょっとして私に飽きちゃったの!?だけに?!」という、なんだかザキヤマとかのお笑い芸人とかが言いそうな、突拍子もない説を紹介します。つまり、「秋=飽き」という「掛詞」ではないか?という「ポンコツ説」です。

この「秋=飽き」は、掛詞としては非常にポピュラーなものだそうで、実は「絶対にありえない」ほどヒドイ説ではないのですが、指導書にもネット上のいろいろな解説にも、一切この説は出てきません。なのでドヤ顔して説明できるようなものではないのですが、「掛詞」の例としては、非常にわかりやすいと思うので、無理矢理の感がありますがここで「掛詞ってこんなんだよ。」と説明に使っています。(生徒も「キャー❤」とかなってますし。)ネットにもどこにも載ってないし、確証もないので、あくまでも「個人の感想です。」として教えていますし、テストにも出せませんが、こんなことも授業で話したりしています。けれど・・・ああ、またあの声が聞こえる・・・

 おあとがよろしいようで・・・