ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「走れメロス」の読解その⑩

このシリーズもなんとその⑩になってしまいました。細かくツッコむとキリがないこの短編小説ですが、最後にまとめて授業で困った小ネタなどをまとめて書いていきます。

小ネタその1 「結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やら祝宴のごちそうやらを買いに・・・」とありますが、婿の牧人は「こちらにはまだなんの支度もできていない、ぶどうの季節まで待ってくれ・・・」と答えています。季節は「初夏、満天の星である。」なので、ぶどうの季節が秋だとしたら、それまで待っていたら「ごちそう」が腐ってしまうのでは?・・・これは生徒の質問で出てきたもので、かなり返答に苦労しましたが、「塩漬けの肉とかそういう長期保存が効く物ではないか?」とお茶を濁しました。(多分これは太宰のやらかしですね。)

小ネタその2 「メロスの懐中からは短が出てきたので・・・」に対し、ディオニスが「この短で何をするつもりであったか。」と聞いているのはなぜか?これも生徒からの質問で、かなり困りました。メロスはヨーロッパの話ですが、調べてみると中国において「剣は兵器の君子」と呼ばれ、崇高で高尚な精神を表すそうです。それに対して片刃の刀は、剣と比べて習得が易しく、庶民的なイメージがあり、剣よりも若干品格が劣るということが、何かの本に書いてあった記憶があります。ということでディオニスは剣をわざと品格の落ちる短刀、言い換えればヤ〇ザ映画の鉄砲玉が使う匕首(あいくち)、というかドス?みたいな「下品なもの」扱いをして「わざと貶めた」のではないか?とお茶を濁しました。(濁してばっかりだなオイ。)まぁこれも単純な太宰の「やらかし」かもしれませんが、この二つは編集者が気づきいてもよさそうですがねぇ?

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小ネタその3 これはもう何というか、厨二病丸出しの、個人的な単なる思いつきというか妄想なのですが、「肉体の疲労回復とともに、僅かばかりながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。我が身を殺して、名誉を守る希望である。」という表現について、ひょっとして太宰は「あるギリシャ神話のエピソードをモチーフにしているのではないか?」と感じたのです。そもそも太宰がギリシャ神話を知らなければ全く無意味な妄想ですが、このエピソードは絶対に知っていた。なぜならそういう題名の作品を書いているから。つまり、純粋な勇者であったメロスは、自分の心に、あるいは「悪魔のささやき」に負けて闇堕ちしてしまいます。メロスの心にそれまでにはなかった「猜疑心」「不信感」「絶望」「無責任」「責任転嫁」「自己中」その他もろもろ、醜い悪心がどんどん沸いてきます。しかし(水によって心が浄化され=禊ぎ?)全ての悪いものが出つくしたあと、最後に「希望が産まれた」・・・そうです。そのギリシャ神話とは「パンドラの匣」です。(ちなみに太宰がこんな作品を書いていたことは、今回初めて知りました。💦)このシーンには、「パンドラの匣」が反映されていたのではないでしょうか?(もちろんこの妄想にはなんの根拠もありません。単に「似ている」という連想だけです。ひょっとして研究者の間で定説だったとしたらすみません。まぁ多分定説ということはないと思いますが。)

パンドラの箱コトバンクより)・・・ギリシャの詩人、ヘシオドスの「仕事と日」に出てくる話から。太古の昔、人間たちは、神、プロメテウスによって火を使うことを教えられました。これによって人間たちの暮らしは豊かになりましたが、同時に、火を用いて争いをするようにもなりました。そこで、全能の神、ゼウスは、人間たちを懲らしめるために、パンドラという女性に箱(本来は壺)を持たせて、人間界へと送り込みます。絶対に開けてはいけないと言われていたその箱を、好奇心にかられてつい、開けてしまう彼女。すると、中から疫病、犯罪、悲しみなどなど、ありとあらゆる災いが飛び出してきました。慌てたパンドラが箱を閉めた結果、箱の中には「希望」だけが残された、ということです。

小ネタその④  実はセリヌンティウスはメロスのことを疑っていなくて、メロスに合わせて自分も疑ったふりをしたのではないか?と疑問を出した生徒がいました。これは明確に否定できますね。疑っていなかったらメロスが「悪い夢を見た」と抽象的な表現をしたときに、「全てを察した様子」にはならず、「え?悪い夢ってどういうこと?」とツッコむでしょうから。自分も悪い夢を見たから、意味がすぐわかった、と読解するべきでしょう。まったく、元ネタがあるといえ、あちこちに油断できない裏の意味をもつ表現が付け加えられた、読み取り甲斐のある小説ですね。

小ネタその⑤ 「メロスは激怒した。」が「勇者はひどく赤面した。」に変わっているのはなぜか、これも生徒からよく出る疑問です。もちろんこのシリーズで初めの方に書いた。「メロス(=勇者)は激(=ひどく)怒(=赤面)した。」の伏線とその結びにあたる部分、ということ。激怒の赤面で始まり、羞恥の赤面で終わるということは、二つ並べると生徒も全然読み取れます。併せてここは、原典そのままの、「神に愛でられた完璧な勇者と、その勇者を一度も疑わなかった親友の、単純なスポ根物友情物語」としては終わらせたくない、つまらないという、太宰治のちょっと皮肉っぽいユーモア、諧謔精神が表れている、ととらえています。(多分これは「自己満へそ曲がり流」ではなく、普通のストレートな読解だと思いますが、もし違ったらどなたか教えていただきたいと思います。)まぁこの表現を「自分の弱き心に打ち勝った勇者なんだけども、みっともないフリ○ン姿なんだよ」ととるか、「フ○チンでみっともないけど、これでも紛れもなく勇者なんだよ」ととるかで微妙にニュアンスが違ってくる気がします。自己満へそ曲がり流としては、「○リチンでかっこ悪いけどこれもまた勇者なんだよ」と、みっともなくても一生懸命頑張る人間を「善し」とする、太宰の明るい笑い顔が浮かんでくるような、後者のイメージが強く感じられます。

さて、とりあえず長々と書いてきました「走れメロス」シリーズは一旦終了させていただきますが、ちょうど今学年末テスト前で、まさにこの「走れメロス」をやっています。また授業の中で、生徒の斬新な質問など小ネタが出てきたらご紹介いたします。どっとはらい