ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

教科書会社に電話した話その1

今までに3回、教科書の内容についてのクレーム参考意見を、教科書会社に電話した事がありまして・・・(メイワクナハナシダ)

 

特に小説の授業では、

・「書かれていることを統合して、書かれていないこと(行間)を読むこと」

・「変化と伏線に気づくこと」

・「誰の視点から書かれているかよく確認すること」

・「推理小説を読め!」・・・などと言ってきました。(生徒のポカーンとした顔が約6割ってところでしたな。)

そして何よりも

・「作者は隅々まで神経を使って書いてあるので、無駄な描写はないし、逆に無駄に見えたり、違和感のある表現には、必ずなにかしらの意味が隠されていると考えること」

つまり、「小説家はスゴイから書いてある内容は何か裏があると信頼して読め!」ってことです。ところで、

歳をとってからとんと読まなくなりましたが、若い頃は熱心な推理小説や冒険小説の読者で、特に都筑道夫氏の「黄色い部屋はいかに改装されたか」「死体を無事に消すまで」とともに、佐野洋氏の「推理日記シリーズ」がめちゃくちゃ好きでした。(こんな評論や書評が好きだったのはつまり、昔から「理屈バカ」だったんですね。)

「推理日記」は、他の推理小説作家の書評本ですが、「えー!そんなところまで気づくのかよ!」と思うような矛盾点や瑕疵をビシバシ指摘していくのが、何というか興味深いというか痛快というか。(たまに指摘された作家と論争になるのも面白いw)

想定される「そんな小さなことは本筋の謎解きやトリックには関係しないじゃないか?」という反論に対して「この内容が法廷で証言されたらはたして裁判官はどう判断するだろうか?」という決まり文句が何回も出てきました。で、

この「推理日記」を読むようになってから、改めて国語の教科書の教材を読みなおした時に、「信頼して読め!」という指導とは矛盾する、「おかしな表現」のいくつかに気づいてしまったのです。最初に気づいたのは、教育出版の教科書の、長野まゆみ氏の「卵」という短編小説でした。普通に読んだときには気づかない(というかそんなクレーム参考になる電話をいれたのはおそらく日本で私くらいだと思われ)けど、「気づいてしまうと引っかかって話そのものを素直に読めなくなる」表現を見つけてしまい、佐野洋気分で(マッタクメイワクナハナシダ)教育出版に電話を入れたのでありました。

(その「卵」がどんなお話かは次回お伝えします。)

 

↑書評本です。「推理小説」自体は載っていません。