ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「夏の葬列」(山川方夫)で感じた違和感②

前回書きました「違和感」についてですが、皆さんはどこかに違和感を感じたでしょうか?さて、私が感じた違和感とは何かというと、ヒロ子さんのセリフの中の、「早く、道の防空壕に・・・」なんです。もっといえば、「道の」です。これって、切羽詰まった状況で必要でしょうか?「早く防空壕に」で十分伝わりますよね。

「えー?全然不自然に感じなかったけど?」という方もいらっしゃると思いますが、状況が状況です。艦載機から銃撃を受けているという緊急事態に、何でこんな説明的な言葉を言わせているのか?と、私は不自然に感じたわけです。そして改めて読み返してみると、この伏線が効いてくるわけです。「ヒロ子さんはあぜ道を大回りしている。」

ほとんどの国語の先生が、この箇所について私と同じく違和感を感じ、この箇所について、「つまりヒロ子さんは、あぜ道を走っていたから防空壕にすぐ入れたんだけど、そこに入らずに彼をわざわざ助けに来た、ということだね。」という読解を授業の中で入れていたはずです。ここで、「自分一人だけだったら防空壕に避難すればよかったのに、それをしないでわざわざ危険な芋畑の中まで助けに来てくれた、そのヒロ子さんを、主人公は突き飛ばしてしまったんだね。」ということを確認するわけです。まぁ人によっては、「まさに運命の分かれ道だったわけだね。」とか言ってドヤ顔する先生もいたことでしょう。(・・・あ、そりゃ俺だ。)ここで、「まじめで良心的で献身的なヒロ子さん」が酷い目に遭い、「行き当たりばったりで自己中心的なクソガキ主人公」の命が助かってしまう、という皮肉な運命と、性格の対比が明らかになってくる場面です。99%の先生がこう教えているはずです。

さて、ここからが、のこり1%の自己満へそ曲がり読解なわけですが、私はこの箇所についてはこう問題提起します。「ヒロ子さんは道を大回りしていたから防空壕が近くて逃げることができた。そして、ヒロ子さんは、いったん安全な防空壕の中に避難したのに、わざわざその安全地帯から、主人公を救うために出てきたということが書かれてあるわけだが、そのことについては読み取れるかな?」

まぁほとんどの生徒は「そんなことは書いてありません!」というのですが、学級の中の鋭い生徒1~2名くらいは、「ここに書いてあるよ。」と指摘すればピンと来ます。皆さんはいかがでしょうか?この件の自己満へそ曲がり読解はまた次回。

ネタを引っ張ってるようにお感じでしょうが、その通りです。日常ネタがあまり豊富な人間ではないポンコツですので、細く長く続けさせてください。ということで、違和感その③は、明日のこころだ~!(←昭和の人しかわからない、ラジオ「小沢正一的こころ」からのパクリ。)

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「夏の葬列」(山川方夫 教育出版2年生)で感じた違和感①

まずネタバレにならない程度にあらすじを紹介します。(教科書で読んだ、という方には無用ですが、教育出版の教科書ではなかった方もいらっしゃると思うので一応)

 

出張帰りのサラリーマンである主人公は、まだ戦時中だった十数年前の小学生の時、疎開していたある町の駅に、思いつきで降り立った。真夏の太陽が照りつける中、懐かしさを感じながらふらついていると、緑の葉の生い茂る芋畑の向こうに、葬列が動いているのを見つけ、昔疎開していた時のある出来事を思い出した。

東京から疎開してきた彼は、同じく二人きりで東京から疎開してきた、2年上級の5年生で、弱虫の彼をいつもかばってくれる、真っ白なワンピースを着た「ヒロ子さん」と、同じく芋畑の向こうで動く葬列を見つめていた。葬列のところに行けば葬式まんじゅうがもらえるかもしれないと思い、主人公は「競走だよ!」と言って芋畑の中を突っ切って葬列に向かった。それに対して、ヒロ子さんはあぜ道を大回りしている。

(ここで授業では、「なぜヒロ子さんは彼と一緒に芋畑の中をショートカットしなかったのか?」なんてのが、定番の発問になりますね。生徒からは「ワンピースが汚れるのがいやだった」「畑を荒らしてはいけないと思った」「彼に花を持たせてやろうと思った」「芋は戦争時貴重な食料だったから」「ヒロ子さんは大柄で大人ぶっていたから、ガキくさいと思った」等、「どれが正解とは言えないけれど、どれも間違っていない」という、「みんな違ってみんな良い読み取り」が出てくる、楽しみなシーンではあります。国語のこういうファジーというか良い加減というか、そういうところが私の性分にはあってます。というか理系は能力的にムリ。)

話を戻しまして、突如カンサイキ(艦載機、なぜカタカナで書いてあるのか?なんてのも定番の発問ですね。)が現れ、葬列に銃撃を加えはじめる。彼は恐怖で芋畑に倒れ伏し、必死に芋の葉を引っ張って隠れようとしていた。こここからは、あらすじではなく原文を(中略で)引用していきます。(改行するとなぜか一行空いてしまうのですべて詰めてあります。悪しからずご了承ください。)

(原文)「二機だ。隠れろ!またやって来るぞう。」奇妙に間延びしたその声の間に、別の声がさけんだ。「おーい、引っこんでろその女の子、だめ、走っちゃだめ!白い服は絶好の目標になるんだ、……おい!」 白い服──ヒロ子さんだ。きっと、ヒロ子さんは撃たれて死んじゃうんだ。その時第二撃が来た。男が絶叫した。(ここで「白いワンピース」の伏線が生きてきます。主人公は必死に隠れています。)(中略)突然、視野に大きく白い物が入ってきて、柔らかい重い物が彼を押さえつけた。「さ、早く逃げるの。一緒に、さ、早く。だいじょぶ?」目をつり上げ、別人のような真っ青なヒロ子さんが、熱い呼吸で言った。彼は、口がきけなかった。全身が硬直して、目にはヒロ子さんの服の白さだけがあざやかに映っていた。「今のうちに、逃げるの、……何してるの? さ、早く!」 ヒロ子さんは、怒ったような怖い顔をしていた。ああ、ぼくはヒロ子さんと一緒に殺されちゃう。ぼくは死んじゃうんだ、と彼は思った。声の出たのは、そのとたんだった。不意に、彼は狂ったような声でさけんだ。「よせ! 向こうへ行け! 目だっちゃうじゃないかよ!」「助けに来たのよ!」ヒロ子さんもどなった。「早く、道の防空壕に……。」「いやだったら! ヒロ子さんとなんて、一緒に行くのいやだよ!」夢中で、彼は全身の力でヒロ子さんを突き飛ばした。「……向こうへ行け!」悲鳴を、彼は聞かなかった。その時強烈な衝撃と轟音が地べたをたたきつけて、芋の葉が空に舞い上がった。辺りに砂ぼこりのような幕が立って、彼は、彼の手であおむけに突き飛ばされたヒロ子さんがまるでゴムまりのように弾んで空中にうくのを見た。

引用は以上です。緊迫感の伝わる、いいリズムの文章だと思います。この小説は本当にあちこち「良い意味で」突っ込みどころが多くて、ついつい細かい描写の読解に時間を費やしてしまいます。(艦載機が日本本土に来るということは、すぐ近くまでアメリカの空母が来ているということで、そのことからも終戦間近だとわかる、とかね)さて、この原文抜粋の箇所で、「作家は細かいところまで神経を使って書いていて、無駄な表現はない。」「表現で何か違和感を感じるところには、裏があると思って読め。」と言っている私が、妙な違和感を感じた箇所があるのですが、それはどこだと思いますか?(というか皆さんも上の文章を読んで、何かひっかかる表現はありませんか?)こんな妙なこだわりを持って授業を進めている国語教師は、100人中2、3人だと思いますが、お暇でしたら考えてみてください。長くなりましたが、私の「自己満へそ曲がり読解」は、次回紹介させていただきます。

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「1・2の三四郎」というマンガに


高校生の時どっぷりつかりまして、その影響でプロレスにも興味を持ち(ハルク・ホーガン初代タイガーマスクがデビューしたり、スタン・ハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントが戦ったりと、まさに黄金期でした。)、東スポやプロレス雑誌も読んだりしていた時期がありました。関連して、村松友視の「私、プロレスの味方です」というエッセイ集も読んでいたのですが、その本の中に、「真剣に戦いを演じているレスラーと、真剣に見つめその戦いの意味を読み取ろうとする観客は、対等の立場である」というような趣旨が書かれていました。(あいにく資料が見つからず、正式な文言はわかりませんが、私なりにはそのように解釈しました。)で、個人的には本を読む時にも同じようなことが言えるのではないか、と思っています。つまり「隅々まで神経を使って本を書いている作者と、作者の意図をできるだけ汲み取って読もうとしている読者は、対等の立場である」と。

前置きが長くなりましたが、山川方夫の「夏の葬列」について書きます。この話は指導書によれば(正直指導書を読むこともほとんどしないポンコツなんですが)いわゆる「ショートショート」として書かれたものだそうで、伏線も、意外な結末もきちんと通っていて、登場人物の心情の読み取りも十分にできる、中学生の読解力養成に、とても適した教材だったと思います。ところで、若いころにはしていませんでしたが、歳をとってから「違和感のある表現の箇所には何らかの意図が隠されていると思え。」ということも、小説の読解では指導、というか伝えてきました。(ほとんど生徒にはピンときていないので、指導というのはおこがましいのですが。)で、この「夏の葬列」の中にも、何だかちょっと違和感を感じる表現があり、その意味を深読みしていくと、「直接は書かれていないが物語の読み取りとしてはかなり重要な裏の意味」が隠されていたことに気づきました。(これは私のようなへそまがりでなくても、きちんと指導されている先生がたくさんいらっしゃると思いますが)

その、夏の葬列の中の、違和感を感じた表現と、その裏の意味について、次回書こうと思います。

 

 



「東洲斎写楽はもういない」を読んで驚いたのは

今まで何の疑いもなく勝手に「とうしゅうさい」だと思いこんでいたことです。「言われてみれば」確かに、東「州」ではなく東「洲」と、さんずいがついています。でも何かの話題に出てきた場合は、まず例外なくみんな「とうしゅうさい」と読んでいます。(ATOKでも「とうしゅうさい」と打てば「東洲斎」は出ますが、「とうじゅうさい」と打つと、「当十歳」としか出てきません。)

極論すると、この本の謎解きというか証明は、この「東洲斎」の読み方が半分を占めている感じなんですが、この基本的な、そして単純なことにほとんどの人が(当然私自身も)何も疑問を持っていなかったことに、新鮮な感動がありました。(そういえば、うろ覚えだけど「邪馬臺国はなかった」的な題名の本を読んだこともあったなぁ。「臺(=たい、台)」ではなく「壹(=いち、壱)」で、「やまいちこく」だったという内容の。まぁ正直、「う~ん?」だったけれども・・・)

これ以上の言及は、ネタバレになってしまうので割愛しますが、この本を読んでいない人は、「え?『とうしゅうさいしゃらく』じゃないの?」と驚いたのではないでしょうか。いろいろな資料から、淡々と事実を並べて「写楽の正体」を、外連味なく強烈な説得力で解き明かすこの本を、大学で卒論を書く前に読みたかったとしみじみ思います。(逆に読んでしまっていたら、びびって書けなくなっていたかもしれませんが)以前のブログで書いた「卵」についてのイチャモン指摘も、「言われてみれば」というレベルの発見だったと思います。でも、よく読むと国語の授業で、生徒の「素朴な疑問」から、読解に関する新たな発見が出てくることは「希に良く」あります。(この言葉って間違ってるけど結構深い言葉のように感じます。)

それにしても、「東洲斎写楽は~」は、最終的な証明が、他の作家の歌麿説や蔦屋重三郎説、北斎説とかシャーロック説?みたいに「ものすごく意外な別人説」ではないところがまたリアルなんですよね。高橋克彦の「写楽殺人事件」なんかも、読んでいた時には「そうかも知んない?」感はありましたが、「意外な犯人」をひねりにひねって考えなくても、十分面白い小説は書ける、そんなお話でした。(ただ、しばらく「明石散人」の本を追ってみたのですが、なんだか途中からゴジラみたいな日本沈没みたいな、謎のフィクサーみたいな、私にはよくわからない話になっていってしまったので、途中で追うのをやめてしまいましたが・・・)

写楽殺人事件」以外にも、一時期「江戸川乱歩賞」作品にはまり、ほとんど毎年買っていたことがありますが、個人的に一番好きだったのは、井沢元彦の「猿丸幻視行」でした。これにはまって柳田国男折口信夫の本にも手を出した時期がありました。さらに、井沢元彦の「逆説の日本史」も、(江戸時代までですが)好んで読んでいました。そんな辺りが、私の「異論は認める」的な、へそ曲がりな国語教科書の読解につながっていったのではないかと思います。

ちょいと自分語りが長くなってしまいましたので、次回はまた私の「自己満へそ曲がり中学国語授業」の一節を、山川方夫「夏の葬列」を題材にご紹介いたします。お暇でしたらご笑納ください。どっとはらい

 

 

「九マイルは遠すぎる」ごっこをしてみたら

「思わず振り返って、子供たちがまっすぐに指さす空を見上げると、ああ、たしかに虹だ。」

 

さて、この文だけから分かることはないかな?どんな当たり前のことでもいいから、何でも気づいたことがある人は?・・・ポカーン。チーン。・・・

まぁ無理もない話で、この小説は1年生の教科書の最初に載っている場合が多く、いわゆる「中1ギャップ」対策的な面も含めて、教科書会社が構成していると思われます。(現行の光村図書の1年「シンシュン」「星の花が振るころに」や2年「見えないだけ」などは、モロに「新しい学級になじめるか不安な生徒」や、「元の友達と疎遠になって不安な生徒」向けのお話ですよね。)

小学校から上がってきて、いきなりこんな訳のわからない発問をされても、何を言っていいやら。(「九マイル~」的に言えば「大学生でさえ理解するのは容易じゃない。まして中一最初の題材となるとなおさらだ」ってとこでしょうかね。)

結局、「どこの国の話かな?」だの、「時間はいつぐらいかな?」とか、ほぼ誘導尋問に近いヒントを出して、何とか以下のような読み取りを引き出しました。

○日本の話である。○時間は夜ではない。○さっきまで雨が降っていた。○この人は大人か、もしくは中学生くらい?何にしても小学生ではないと思われる。○男性の可能性が高い。(←最近はこういう発言に神経を尖らせないといけないらしく、なんだか生きづらい。「嫌な渡世だなぁ」by座頭市

頑張ってもこれが限界でしたので、こちらの方でいくつか例を挙げてみました。

①子供たちは話し手の後ろ側にいた。(まっすぐに指さす空を、から)②話し手はこの文章の直前に、「虹が出ている」ことを、何らかの情報を得て気がついた。(たしかに虹だ、から)③その情報は聴覚による可能性が高い。(というか他には考えづらい)④ならば、子供たちが叫んだことで気づいた可能性が高い。(少なくとも子供たちは話し手より先に気づいているから)

ただ、これはハッキリ言って「ズル」なんですよね。なぜならこちらは事前に本文を全部読んでいるから。まぁ「答えを先に知っていて、答えにつながるように無理矢理つなげた推理」だということになります。「先に答えを知っている」と、強引にこんなこじつけ推理もできます。⑤話し手はそれまでうつむいて歩いていた。(見上げると、から。でもこれはかなり無理がありますね。)もっと強引な推理として⑥うつむいて歩いていて虹にも気づかないということは、何かに気を取られていたにちがいない。ひょっとしたらうつむいていたなら、何かで落ち込んでいたのかもしれない・・・なんてね。

確かにこの少年(中学生)は、いろいろなことがうまくいかずに落ち込んで、下を向いて歩いていたのですが、それを先に知っていれば、強引につなげることは簡単にできてしまいます。というわけで、この題材を使っての「九マイルは遠すぎる」ごっこは、我田引水的というか、都合の良いゲリマンダー的と言うか。まぁとにかく本家以上にうまくいきませんでした。

ところで、この「ゲリマンダー的」という言葉の使い方は、微妙に違っているかもしれませんが、私がこの言葉を知ったのが、明石散人著「東洲斎写楽はもういない」という推理小説?の中でした。教師になってから読んだ本ですが、その鮮やかな推理というか証明には本当に驚きました。専門家は何というか知りませんが、写楽の正体についての証明が驚くほど「腑に落ちた」のです。他にも色々な「写楽本」があり、私も数冊よみましたが、これに勝る写楽本はないと思っています。次回はそれこそ「正体不明の写楽はもういない」と思わせてくれた、この本や、この本に関連したり連想した別の推理小説についてもちょっと触れつつ、また別の国語の授業の話題につなげたいと思います。どっとはらい

 

「九マイルは遠すぎる」は言葉の可能性を広げてくれる本です

解説を見ると、1967年発行の短編集、とありますので、半世紀以上前の古めかしい、でも安楽椅子型推理小説としては非常に有名な作品です。ですから、今読んでも「うーん?なんか古くさい・・・」となるかも知れません。でも、特に表題の話は、「純粋に非常に短い文章だけから意外な読解を引き出す」という、理屈バカで活字中毒の私にはもうたまらない話です。

 

ネタバレにならないように、推理小説を説明するのは非常に難しいのですが、ざっくりいうと「『九マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ。』という短い文章について、純粋に文言だけをヒントに読解をしていき、最終的に『前日に起きたある殺人事件」の真相を暴き出す、という話です。(文庫の裏側の文章から借りましたので、これくらいはセーフですよね?)

探偵役のニッキィ・ウェルト教授は、「まず話し手はうんざりしているね。」ということから始め、次々に普通は考えつきもしない解釈の可能性を広げていきます。もちろん中にはかなり強引なものや、現代の感覚とズレている内容もあります。(例えば、「九マイル=14、4キロくらいでうんざりしているから、話し手はスポーツマンではないよね。」なんて部分は、現代人とはかなりかけ離れた感覚です。半世紀前のアメリカの地方都市での話なので、その当時は普通だったのかも知れませんが、現在15キロ弱歩くとなると、スポーツマンでもちょいと嫌だと思います。)

とまぁ、強引なところはありつつも、故都筑道夫氏の言う「論理のアクロバット」についつい引き込まれ、訳のわからないうちに素直にダマされてしまう、そんな作品です。言葉についてツッコんで読み込んで、想像力をはたらかせると、こんなにも世界が広がるのか・・・と、軽く感動を覚えました。それからは、教科書を読むとき(※教材研究ではありません。ドヤ顔で言うことではありませんが、あまり教材研究をしたことはありませんから。)書かれてある文言の裏の意味、ダブルミーニングについて、以前と比べ非常に神経を尖らせて読むようになりました。その影響で「そんな箇所にこだわって授業する国語教師は日本全国ぼぼいないのではないか?」と思われる、マニアックで重箱の隅をつつくような読み取りを生徒に促すようになりました。

 

ところで、この文庫本の序文によれば、この話のきっかけは、自身教授であった作者が、上級英作文のクラスで教えていたある日の授業だったそうです。その日教授は「言葉は使いようによっては、ごく短い組み合わせでも幾通りもの解釈が得られる」ことを、学生に示すため、ふと見た新聞の、ボーイスカウトのハイキングに関する記事に載っていたこの「九マイルもの道を~」という文章を黒板に書き、学生に「この文章から可能な推論を引き出してみたまえ。」という課題を出したのだそうです。結果、「この試みはあまり成功しなかった。」そうで、生徒は何か手の込んだ罠だと考え、「黙っているにしくはない」と考えたらしく、作者がむきになっておだてたりヒントや助言を与えているうちに、自分でこの推論にはまっていってしまい、その体験を元にこの小説が書かれた、とのことでした。で・・・

 

私もこのパターンで、何か教科書の題材から、生徒に出題してみたいと思ったわけです。(「成功しなかった」って言ってるのにネ)そこで選んだ題材が、教育出版(他にも採用している会社はあるようですが)「にじの見える橋」(杉みき子作)の一節。

「思わず振り返って、子供たちがまっすぐに指さす空を見上げると、ああ、確かににじだ。」

本文を読む前に、この一文を黒板に書き、「さぁ、この一文から、何でもいいから分かることを発表してみよう。」と、生徒に振ってみたわけですが・・・どうなったかはまた次回。

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教科書会社に電話した話その3

さて、中学校の行事の一つに、陸上競技大会というものがあり(学校によりますが)教師が手分けして審判や誘導などをします。かなり昔の話、広い競技場でお互いに連絡を取るために、小型のトランシーバーを使っていたのですが、ある時、年配の先生がものすごい大声でどなってるんですよ。「だからさっきから何回も百メートルの生徒を集合させろっていってるだろ!聞こえないのか!」なんてね。トランシーバーのスピーカーからは延々と「出発係そろそろ時間ですけど準備いいですか?応答願いますどうぞ!」と流れている。ははん、わかった。「先生、喋るときに通話ボタン押さないと通じませんよw」」「お、おう(汗)」なんて事がありまして・・・、で。

 

おわかりいただけただろうか(心霊特集かよ)

 

携帯電話やハンズフリーの電話ならともかく、昭和の無線機やトランシーバーだったら、音声を送るときは必ず通話ボタンを押しながらでないと通じませんよね。

いや、現在でも、送信が終わって返事を待つとき、警察?やアマ無線なら「どうぞ」、自衛隊なら「送れ」、外国なら「オーバー」とか言って、送信ボタンを離して返信を待ちますよね。

つまり、「通信機を卵の近くに置」いただけでは、ハッチアウトはおろか、たとえ殺人事件がおきていても、相手には何も聞こえません。(たとえば「送信ボタンをガムテープで固定して」なんて記述があれば別ですが。)だからそもそもこの話は、「音が聞こえるはずがない」ので、「話そのものが成立しない」のです。

「無線機の電源が入っていたから、部屋の中で争う音が聞こえたんです!」なんて証言をしたら、裁判官が「それはおかしい!」と判断するのと同じ案件だったのです。

 

「理屈バカ」でドン引きされるかもしれませんが、このことに気づくと、どうしても授業で教える時に引っ掛かりを感じでしまい、純粋に「深イイ話」として教えるのが難しかったです。(一通り授業を終えてから、「ところで私はここが引っかかるんだけど」という前置きで、このミスを生徒に教えましたが、生徒は8割ポカーンとしてましたね。)

 

そもそもなぜ私がこの話を、教科書会社に電話したのかというと、まだ若かりしその頃、誰か先輩の先生が「教科書のミスを見つけて連絡すると、謝礼が貰えるらしいぞ。」と、何かの話の中で教えてくれたからでした。それが本当なのかどうか、いまだにわかりませんが、それを信じて勇んで教育出版に電話してみたのです。返答は・・・

「はぁ、そうですね。上の者に伝えておきます。ご指摘ありがとうございました。ガシャン ツーツー・・・」でした。おいおい、謝礼は???

 

改めて考えるに、これは作者のミスであって、教科書会社のミスとは言えないからなのかもしれませんね。にも関わらず、私はその後さらに2回、理屈バカ的なしくじりを見つけては、教科書会社に電話をかけたのです。その話はまたいずれ。どっとはらい

 

では、次回は私の国語に考え方を考え方を、根底から変えてくれたこの本の話など。

お暇でしたらごらんください。 ※ハリィ-ケメルマン「九マイルは遠すぎる」

 

 

教科書会社に電話した話その2


さて、前回書きました長野まゆみ氏作「卵」のあらすじですが・・・(以下ネタバレになりますので、内容を知りたくない方は今回とばしてください。)

<あらすじ>(時代設定としてはおそらく昭和40年代?少なくとも戦後すぐではなく、携帯電話のない時代)海辺の岬の中学校に転勤してきた紺野先生は、チャボの孵化に取り組む生徒達の面倒を見ていた。その生徒達の中に、少し離れた小島に住む生徒がいた。この生徒は舟で登校していたので、天候が荒れると舟が出せず学校に来ることが出来ない。電話も通じていないらしく、学校とは無線機(おそらくアマチュア無線?挿絵では大型のトランシーバーのようなもの)で連絡を取っている。いよいよチャボがかえりそうになってきたが、波が高くて孵化を見るのを楽しみにしていたその少年が学校に来られない。気をもむ紺野先生のところに、島から少年が無線機で連絡を取ってきた。今まさに卵からかえる(ハッチアウト)せんばかりになった時、紺野先生は機転を利かせて、無線機を孵化器のそばに置いて、他の生徒を呼びにいった。他の生徒がかけつけるとすでにチャボはハッチアウトしていて、無線機からは「先生、もしかしてハッチアウトの音を聞いたのは僕だけですか?」という島の生徒のうれしそうな声。次の日、天候が回復して、学校にやって来られたその生徒に、紺野先生はハッチアウトした卵のかけらを渡してやった。生徒は手のひらに乗せた卵のかけらをいとおしそうにながめていた。

という、ほっこりと心温まる話?なわけですが、さて、このお話のいったいどこに私が引っかかり、教科書会社にクレーム丁寧な質問の電話をいれたのか、皆さんにはおわかりでしょうか?実はここには「この証言を裁判官が聞いたらどう思うか?」というレベルのしくじりがあるのですが・・・お時間つぶしに考えてみてください。

私がした電話の内容は、また次回書きます。

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チャボのひな

教科書会社に電話した話その1

今までに3回、教科書の内容についてのクレーム参考意見を、教科書会社に電話した事がありまして・・・(メイワクナハナシダ)

 

特に小説の授業では、

・「書かれていることを統合して、書かれていないこと(行間)を読むこと」

・「変化と伏線に気づくこと」

・「誰の視点から書かれているかよく確認すること」

・「推理小説を読め!」・・・などと言ってきました。(生徒のポカーンとした顔が約6割ってところでしたな。)

そして何よりも

・「作者は隅々まで神経を使って書いてあるので、無駄な描写はないし、逆に無駄に見えたり、違和感のある表現には、必ずなにかしらの意味が隠されていると考えること」

つまり、「小説家はスゴイから書いてある内容は何か裏があると信頼して読め!」ってことです。ところで、

歳をとってからとんと読まなくなりましたが、若い頃は熱心な推理小説や冒険小説の読者で、特に都筑道夫氏の「黄色い部屋はいかに改装されたか」「死体を無事に消すまで」とともに、佐野洋氏の「推理日記シリーズ」がめちゃくちゃ好きでした。(こんな評論や書評が好きだったのはつまり、昔から「理屈バカ」だったんですね。)

「推理日記」は、他の推理小説作家の書評本ですが、「えー!そんなところまで気づくのかよ!」と思うような矛盾点や瑕疵をビシバシ指摘していくのが、何というか興味深いというか痛快というか。(たまに指摘された作家と論争になるのも面白いw)

想定される「そんな小さなことは本筋の謎解きやトリックには関係しないじゃないか?」という反論に対して「この内容が法廷で証言されたらはたして裁判官はどう判断するだろうか?」という決まり文句が何回も出てきました。で、

この「推理日記」を読むようになってから、改めて国語の教科書の教材を読みなおした時に、「信頼して読め!」という指導とは矛盾する、「おかしな表現」のいくつかに気づいてしまったのです。最初に気づいたのは、教育出版の教科書の、長野まゆみ氏の「卵」という短編小説でした。普通に読んだときには気づかない(というかそんなクレーム参考になる電話をいれたのはおそらく日本で私くらいだと思われ)けど、「気づいてしまうと引っかかって話そのものを素直に読めなくなる」表現を見つけてしまい、佐野洋気分で(マッタクメイワクナハナシダ)教育出版に電話を入れたのでありました。

(その「卵」がどんなお話かは次回お伝えします。)

 

↑書評本です。「推理小説」自体は載っていません。

昔の定期テストの珍答から

中学2年生の「短歌の問題」で、「作者名(正解は石川啄木)を漢字で書きなさい。」という問題を出しました。啄木は三行書きが特徴なので、他の作者より見分けがつけやすく、サービスのつもりで出題しましたし、授業の中でも「豚木と書かないように!」と注意したのですが、まぁ出てきた答えが・・・

・「まちちゃん」「田原間知」(俵万智のこと?)「斎藤茂吉」「馬場あき子」「若山牧水」「小林一茶」あたりまでは、まぁわかるとして

・「高野長英」「渋沢栄一」「杉田玄白」「田沼意次」「松平定信」「十返舎一九」「坂本龍馬」(しかしどれも逆によく書けたな。歴史の授業じゃないっつの。)

・「石川豚北」「石川拓豕」「石川拓豚」「柳川豚木」(あれだけ字を注意したのに)

・「むらさきしきぶ」「三行書き」(作者名を漢字で書きなさいって書いてるのに)

・「おさむ」「十五」「田中文子」(誰だよ一体これ???)

 

こういう解答に出会うと、しばし採点の手が止まります。(この時はかなり止まったのでまぁ採点のはかどらないことといったら。)