ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「1・2の三四郎」というマンガに


高校生の時どっぷりつかりまして、その影響でプロレスにも興味を持ち(ハルク・ホーガン初代タイガーマスクがデビューしたり、スタン・ハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントが戦ったりと、まさに黄金期でした。)、東スポやプロレス雑誌も読んだりしていた時期がありました。関連して、村松友視の「私、プロレスの味方です」というエッセイ集も読んでいたのですが、その本の中に、「真剣に戦いを演じているレスラーと、真剣に見つめその戦いの意味を読み取ろうとする観客は、対等の立場である」というような趣旨が書かれていました。(あいにく資料が見つからず、正式な文言はわかりませんが、私なりにはそのように解釈しました。)で、個人的には本を読む時にも同じようなことが言えるのではないか、と思っています。つまり「隅々まで神経を使って本を書いている作者と、作者の意図をできるだけ汲み取って読もうとしている読者は、対等の立場である」と。

前置きが長くなりましたが、山川方夫の「夏の葬列」について書きます。この話は指導書によれば(正直指導書を読むこともほとんどしないポンコツなんですが)いわゆる「ショートショート」として書かれたものだそうで、伏線も、意外な結末もきちんと通っていて、登場人物の心情の読み取りも十分にできる、中学生の読解力養成に、とても適した教材だったと思います。ところで、若いころにはしていませんでしたが、歳をとってから「違和感のある表現の箇所には何らかの意図が隠されていると思え。」ということも、小説の読解では指導、というか伝えてきました。(ほとんど生徒にはピンときていないので、指導というのはおこがましいのですが。)で、この「夏の葬列」の中にも、何だかちょっと違和感を感じる表現があり、その意味を深読みしていくと、「直接は書かれていないが物語の読み取りとしてはかなり重要な裏の意味」が隠されていたことに気づきました。(これは私のようなへそまがりでなくても、きちんと指導されている先生がたくさんいらっしゃると思いますが)

その、夏の葬列の中の、違和感を感じた表現と、その裏の意味について、次回書こうと思います。