ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

走れメロスの主題について思ったこと

えー、先日機会があって、他の学校の先生の研究授業を見てきました。お若い先生でしたが、「走れメロス」の主題に迫るという、なかなかにハードルの高い内容の授業を公開されていました。正直「走れメロス」の公開授業は初めて見ましたし、私自身もこのブログで「太宰治」「走れメロス」についての私見を述べるのはなかなかに勇気がいりました。チャレンジ精神にほとほと感服いたしました。

さて、その「走れメロスの主題に迫る」授業を自分自身がやるとしたら、どういう展開になり、どう着地させるだろうか?あるいは生徒それぞれが感じた主題を交流し合って終わらせるだろうか?・・・などと、授業を見ながらぼんやり考えて(まぁ四六時中ぼんやりしているのですけど)いました。で、しばらーくぼんやり考えているうちに、「すごくこわいかんがえになってしまった。」のです。

 (ぼのぼのにそういうセリフがあったような?)

あれ?主題というものが、「作者が伝えたいこと」だったとしたら、ひょっとしてそれって「原典の人質ってなんだかありきたりでつまんないから、こうした方が面白いんじゃね?」と、太宰が思って書いただけじゃないのか?と考えてしまったのです。つまり、「人の心を動かすのは、全ての虚飾を捨て去った純粋な心だ」とか、小難しいこと考える必要なんてなく、単純にエンタテイメントとして、古臭い勧善懲悪?の話を作り替えて楽しませたかっただけじゃないのか?・・・なんて考えついてしまったのです。いわば「主題なんて無い。あえていうなら面白い話を書きたかっただけ。」なんてことを思ってしまったのです。怖いですね~恐ろしいですね~

(←この人のこと知ってる人減っただろうなぁ)

などと打っていたら、さらに怖い考えになってしまったんですけど。何かというと、「これってひょっとして、太宰流羅生門なんじゃないの?!」という考えです。

私レベルの不勉強な国語教師でも、太宰がやたら芥川龍之介に傾倒していたことは知っています。(芥川賞がほしくてほしくてたまらなくて、佐藤春夫にやたら長い手紙を書いたんでしたっけ?)そしてご存知の通り、芥川は今昔物語集その他の古典を元に、羅生門やら鼻やら芋粥やら、元ネタを自分流に書き換えた有名な作品を数多く書いています。ひょっとしたら太宰は、芥川に倣って、ひねりの薄い「人質」を、「俺ならもっと面白い話にできる」とばかりに書き換えたのではないか?・・そんな根も葉もない、勝手な怖い妄想を、つい思いついてしまったのです。はい、例のあの人にはこう言われるでしょうね。

ごもっとも、全くその通り。ただし論破されたとは思いません。学者先生ならともかく、一介の国語教師という、吹けば飛ぶような将棋の駒に立場だからこそ言える、無責任で自由な妄想ってのは、きっと許してもらえるんじゃないですかね?知らんけど。

ということで、今回のブログは、リアルに個人的な思いつきというか妄想を、ただ垂れ流しただけのものになってしまいました。(反省はしている。だが以下略)でもまぁそもそもが「自己満へそ曲がり流」につきご勘弁ください。

それにしても、浜の真砂は尽きるとも、世に「走れメロス」のネタはつきまじ、と石川五右衛門が言ったとか言わないとか。また何か発見(とか妄想)があれば載せたいと思います。本日はこれまで~。

追伸 気づいたらこれでブログに載せた記事が100本を越えました。もしよろしければ今後もご愛読いただければ幸いです。読んでいただいている皆様、ありがとうございました。