ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「走れメロス」の読解その⑧

生徒がよく読み違いする箇所として、「刑場で二人が殴り合った後、うれし泣きにおいおい泣いたのはなぜか?」という発問に対し、①「間に合ってセリヌンティウスの命が助かったから」という答えが多いのですが、これは違いますね。同じく②「メロスが許してもらっていのちが助かったから。」と答える生徒もいますが、これも違いますね。なぜなら二人がうれし泣きした段階では、ディオニスは許すとも許さないとも言っていませんから。ここで二人が泣いたのは、「お互いに自分の中の醜い部分をさらけだしあい、お互いに許し合うことで、心に一点の曇りもなく、友と友の間の信実を確認できたから」とでもなりますか。(ここで二人の頭には、どちらかが処刑されることなど全くなかったはずです。「人の命も問題でないのだ。」ということでしょう。)

ところで、この時この二人は、自分の中にあった闇の部分、ダークサイドをお互いに、しかも大群衆が見守るなかで、告白する必要もないのにさらけだしあいます。ギリギリ間に合ったのだから信義や約束は最低限守られたわけで、なぜ自分の中の、一番恥ずかしい部分をさらけだしあったのか。もうこの段階では「間に合って友の命を救う」ことは頭になく、「隠し事のない誠実な友でありたい」こと、「今はただその一事だ」から、群衆や王が見ていることなど頭にない。=以前のメロスとは違い、「人にどう見られるかなど頭にない。目にはただ自分の前の友だけが見えていて、その友とお互いに誠実な関係に戻れたことが嬉しくて泣いている、と解釈しています。

このあたり、全国の教師を悩ませる、「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」とはなにか(99%の教師が触れ、しかも「これだ!」という決定的な読解が難しいメロス最大の難問)とも関わってくると思いますが、ここではちょっと後回しにします。

ここで太宰が「メロスを裸にした意味」が、単に見た目だけではなく、「心まで」裸になった、つまり「良いところも悪いところも含め、自分の内面まで全て隠し事なくさらけだした」ということがわかると思います。生徒にも、「風体だけが裸になったわけじゃないんだよ」といえば、「心も」という読み取りはすぐに出てきます。

ディオニスが素直に二人の誠実さを信じた理由はここにあります。つまり、かつてディオニスの側にいた「口では、どんな清らかなことでも言えるけど実際の行動が醜かった、王を人間不信にした誰か」とは真逆の、「みっともない風体で、言う必要のない自分の醜さをわざわざ口に出しているのに、行動は清らかで群衆がその醜い告白を含め認めている二人」の言動を「信用できる」と思ったのです。

ディオニスもやはりこの「二人が、告白する必要のない、自らの醜い内面を、大衆の耳目も気にせず、文字通り赤裸々に告白し、それでも人は許し合い、わかり合うことができる」ことを知った。いってみれば「みっともないが絶対的に信用できる正直さ」が、ディオニスを闇落ちから立ち直らせ、元の「臣民がしたう善良な王」へと引き戻したのです。

余談ですが、生徒が問題を起こしたときにありがちな話で、「こちらが聞いている以外の、黙っていればわからないような、自分のやらかした内容を告白してくる生徒」のことは、何となく信用出来ます。(まぁ大抵その後何回もやらかすんですが。)これなんかもひょっとしたらディオニスの心理に近いかも知れません。

とにかく、太宰は原典の単純な「神の加護を得た英雄譚」ではなく、いかにも人間くさい、みっともなくジタバタする中で救いを見いだす、そんな話に書き換えたのだと、「自己満へそ曲がり流」では分析します。(分析なんて言うと、ちゃんと勉強している人達にとっては噴飯物なのは重々承知ですが、とりあえずこのポンコツ爺さんはそう読みました。)では次回はいよいよ「恐ろしく大きいもの」について考えていこうと思いますが、正直これについてはあまり自信がありません。でも100%の国語教師が触れるこの読解を避けるわけにはいきませんので、「自己満へそ曲がり流」に読解してみます。よろしければまた読んでやってください。

f:id:ponkotsu1000sei:20220129173814p:plain