三学期になりまして、また『少年の日の思い出』の時期になりました。毎度のことながら教材研究が甘くて、恥ずかしながらまたもや「触れておくべきなのに今まで触れていなかった事例」に気づいてしまいました。そもそも、このブログは「経験の浅い先生に話のネタを提供する、あるいは重箱の隅をつつくような読解を紹介する」というのがメインのつもりで始めました。いつの間にかネタに困ってソロキャンプネタやアニメネタも書くようになりましたが、本来は「へそ曲がり国語教室」がメインです。(本人がすっかり忘れておりましたが)
さーて、今回気づいた取りこぼしネタその①ですが、これは非常にデカい見逃しでした。再任用ももう終わりそうな時期に気づいてしまい、今までの生徒には本当に申し訳ない話です。(もう二度と教えることもないだろうし)
『少年の日の思い出』は、前半と後半で視点(語り手)が変わる話です。このあたり日本の人口のほとんどが読んでいる話なので(教科書ってすごいね)簡単な説明でいいと思いますが、前半部分の語り手の「私」が、「ちょう集め」を再開したので、「僕」に「お目にかけようか」と聞く。「僕」は「見せてほしい」と言うので、「私」は標本を二箱以上(「最初の箱」から)も持ってきてランプの下で見ます。ところが、「僕」は「ワモンキシタバ」を「用心深く取り出し」「羽の裏側を見る」(マニアの伏線ですね)と、自分もかつて熱情的な収集家だったことをカミングアウトし、すぐに「もう、結構」と言います。まるで「その思い出が不愉快ででもあるかのように」
見せようか→見せてほしい→一つだけ見て不愉快そうに「もう、結構」。これは大人の振るまいとしてふさわしくはないですね。書いていませんが「私」がカチン、ときても不思議はない。ですが一方、「私」が「僕」を不愉快にさせるような何かをしたのか?と考える可能性もある。だから「僕」は「微笑して」巻きたばこを求めた。この微笑は、「僕」が不愉快そうなのは「私」のせいではないよ、という表明であること。そして落ち着くために「巻きたばこ」をねだった、のでしょう。(このあたりも今までは触れてこなかった、残念)
さて、今回触れておきたいのは「もう、結構」についてです。この失礼な発言を詫びて、併せて発言の背景をながながと語るわけですが、このセリフが「走れメロス」の「メロス(勇者)は激(ひどく)怒(赤面)した」に次ぐ、超ロングパスの「伏線」であることに触れてこなかった大チョンボにこの歳で気づいてしまったのです。もう切腹物です。(しませんけど)
もうおわかりですね。このセリフがもう一度出てくることに。そうです。あの模範少年の「エーミール」が言った「結構だよ。僕は、君の集めたやつはもう知っている」です。つまり、「僕」はかつてちょうに関してエーミールに言われた「ちょうを見たくない」というセリフを、そのまま自分で言っていたのです。ヘッセがドイツ語で何とかいていたのかは分かりませんが、きっと「No thank you」的な言葉が書いてあったのでしょう。ですが、大人の「僕」が「もう、結構」と言うのはわかりますが、十二歳くらいのエーミールに「結構だよ」と言わせたのは少々違和感がある。「いらないよ」とか「お断りだよ」とかの方が子どもらしい。と、いうことは訳者の高橋健二氏が、わざと合わせた、のではないでしょうか。だとしたらそのことに触れてこなかったのは、高橋健二氏の意図を無視した、大変申し訳ないチョンボになりますよね。ここに懺悔したいと思います。数少ない中学教師読者の皆様、ぜひ私の轍を踏まないようにしていただきたいと思います。
『少年の日の思い出』についてはもう一つ、実際の知識をどう処理するかで迷っています。それは「コムラサキ」の描写に関する問題です。ダメ人間の僕が、憎たらしい模範少年のエーミールに(のび太と出来杉君の関係で例えると生徒は分かりやすいみたいです)唯一マウントを取れそうなチャンスがきたのに、「足が二本欠けているという、もっともな欠陥」を指摘されて凹んだ場面がありましたが、AIに「コムラサキ 足が欠けている」と入力すると、「コムラサキはタテハチョウ科に属しており、一見すると足が四本しかなく、前足が二本欠けている(退化している)ように見えます。これは正常な状態です」・・・・・・だそうです。もちろん、ヘッセの時代には分かっていなかったことだったのでしょうから、現在の知識でツッコミを入れるのは野暮ですが、触れるべきか触れないべきか。皆様、いかがお考えでしょうか。
