ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

老害のつぶやき 野球についてその③

前回「巨人の星」の話題で終わってしまいましたが、その影響も大きく、とにかく当時の少年はジャイアンツファンが多かった。そして日本全体そうでしたが、ONファンがやたら多かったのです。ですから当時、グローブやバット同様、誕生日プレゼントに「野球のユニフォーム」を買ってもらう子供も多かったのですが、自然と「ジャイアンツ風のユニフォーム」に、背番号3や背番号1をつけてもらう子が多く、一つのチームに1番と3番が2〜3人ずついる、という珍妙なチームができあがるわけですw

特に背番号3の人気が高かったのですが、これは長嶋人気だけではなく、小学生なりのセコイ目算がありまして、何かというと「俺は背番号3だから、サードを守る」という主張をするわけです。そしてそれがそこそこの説得力を持って通ってしまうところがアホな小学生らしいところですね。で、なぜサードが人気なのか、おわかりでしょうか?

われわれのやっていたのは超ヘボ野球ですから、ピッチャーの投げる球も遅く、きちんと判定したらフォアボールばかりでしたので、打てそうな球だったら全て「ストライク」と判定していました。なので遅い球を勇んで早打ちするものですから、みんな思い切り引っ張って三塁側に打つことになります。つまり三塁手は一番守備する機会が多くなるのです。逆に(当時右打ちの子供なんてほとんどいませんでしたから)二塁やライトにはほとんど球が飛んでこず、自然と不人気でした。一塁も内野からの送球を受ける場面が多かったのでわりと人気で、ゲームの前には三塁のところに背番号3が、一塁のところに背番号1が2〜3人ずつ集まって、目の色を変えてじゃんけんをしていたものです。「俺が長嶋」「おいらも長嶋」・・・何だかそんな落語の枕があったような?「蛙茶番」だったかな?素人芝居で忠臣蔵をやることになり、おかる勘平の場面で役を決めようとしたら「俺は勘平」「おいらも勘平」「あたいも勘平」と引かない。芝居が始まり幕が開くとずらりと勘平が並んでいて観客が「なんですこれは?」「へぇ、カンペイシキ(観兵式)でしょうな。」…というくすぐり。(→最初私もなんのことかわかりませんでした。)

閑話休題(それはさておき、なんて都筑道夫がルビを振ってましたね)そんな中私めも、親に巨人風ユニフォームを買ってもらっていたのですが、何番を背負っていたと思いますか?我ながらかなりセコい作戦だったなぁと、今にして思うのですが、私が背負っていた背番号は「5」番でした。(これで「ハハァーン」と思ったあなた、かなりの老人同世代ですねw)5番って誰だよ?とお思いでしょうね。当時のジャイアンツの5番は「黒江」という地味〜な(失礼)遊撃手でした。そうです。私は背番号3がじゃんけんしている隙に、静か〜に背番号5の守備位置であるショートに立っていたのでしたw(引張りバカばっかりだったので、ショートにも結構球が飛んできたのですよ。肩弱かったくせにね。)

「1番人気はピッチャーじゃないのか?」とお思いでしょうが、ピッチャーは基本「打ちやすい球」を投げる役目でしたから、コントロールが悪い(=打ちやすい球が投げられない)と文句を言われたり、間違ってぶつけたりすると嫌なので(泣くから)意外と神経を使ったりするため、実はそれほど人気は高くありませんでした。一塁手はゴロは来ないけど味方の送球を受ける場面が多く、人気のポジションでしたが、なにせヘボ野球ですから、高確率でショートバウンドの送球が来て、よく取り損なって腹やすねに当てて悶絶したり、後逸して慌てて球を追いかけたりしてましたね。(たまーにまぐれでキャッチできるとヒーローになれましたが。)

そして一番人気の無かったのは、おわかりかと思いますがキャッチャーです。マスクやプロテクターなんて持ってないからファールチップが怖いし、投球がショートバウンドして急所に当たって悶絶したりするので、バッターボックスから2メートルくらい離れた所で構えるのは当たり前、人数が足りなかったりすると攻撃チームからキャッチャーを出して「振り逃げ、盗塁無し」のルールでやってましたな。

ベースなんてないので、かかとやバットの尻で地面に描いたり、段ボールを拾ってきて石を載せておいたりしてました。小学校のグラウンド1面で4カ所くらい同時に(つまり8チームが)やっているなんて当たり前。当然バックネット前が一番人気なので、授業が終わってから、大急ぎで持ってきていたグローブを、ホームベースの所に置いて場所取りをしたりしました。それでも5年生の時に、せっかく早く行って場所取りしたのに、後から来た6年生に強引にどかされ、ブツブツ文句をいいながら別のところに移動したり。(リアルジャイアンですね。)

そもそも私は小学生のときに、親の転勤で今とは違うところに住んでいたのですが、大学生になって道内をツーリングしたときに、昔ゴムボールで野球的なことをやっていた広場を訪れてみて驚きましたね。あのころ全然普通に何人も集まって三角ベースをやっていた、結構広かったイメージの場所が、ほんの7、8mほどしかない、猫の額ほどの広さだったのです。こんな狭いところで、小学生が何人も集まって、日が暮れるまで遊んでいたんだなぁと。

でも考えれば、磯野カツオ君も、ジャイアンスネ夫達も、こんな感じの所でやっていて、カミナリさんに(←これはオバQもか?)怒られていたんですよね。公園でキャッチボールをしている姿も見なくなりましたし、場所によってはキャッチボール禁止なんてところもあるようです。(そもそも「公園で遊んでいる中学生の声がうるさい!」と学校に苦情電話が来る時代ですしね。)

 いつもの空き地(スペース可変)】なぜあの広さで野球やジャイアンのリサイタルをするのか? | ドラまとめ

ここで老害ジジイのお得意なフレーズ「昔はよかったなぁ、しみじみ。」・・・おあとがよろしいようで。