ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

教職員組合ってのがありましてね(慚愧と懺悔その2)

前回の続きです。相変わらず放課後の職員体育ぐらいしか活動らしい活動をしていなかったのですが、それでもバドミントン、野球、バレーボール、サッカー、バスケットボールと、いろいろな球技(卓球を除く)や、冬はスキー大会(はあまり出なかったけど)など、ストレス解消にはとても良い福利厚生行事として楽しんでおりました。

まぁどことはいいませんが、その組合を抜けることになった時の学校が、いわゆる「荒れた」学校でして、見た目は厳つい私ですが、朝起きると胃がキリキリ痛み、吐き気がとまらないようなことがよくあり、何回か体調不良で学校を休んだことがあるほどでした。細かく上げればキリのないほど、校内校外で虞犯行為、触法行為を繰り返す生徒がいて、その都度授業を自習にして対応したりして、普通に勉強したがっていた生徒には大変申し訳なかったと思います。

考えてみれば、三十数年の教師生活を振り返り、思い出したくもない年というのは幾つかありますが、何とかその疾風怒濤の年月を乗り越えてきたことで、教師生活で色々嫌なことや凹むことがあっても、「あの時よりマシ」と考えることが、心の支えだったように思います。もちろんそんな経験はしないで済む方がずっといいですし、そもそも「おまえ等がだらしないからそんな生徒になったんだろ。」と言われればそれまでですが、今は太っといブレザーのズボンを「ボンタン(死語1)」に仕立て直してくれたり、短ブレ(死語2)の背中に暴走族的なよく分からない文言の刺繍を入れてくれるような店もなくなったので、物理的に若干今の方が楽かもしれませんね。

さて、そんなこんなで先生方が毎日青息吐息で何とか授業をし、私も含めてたまに体調不良や精神的不安を抱えて苦しんでいる中で、前述の職員体育を数少ない楽しみの一つとして過ごしていたわけですが、そんな中で、特に体調不良でも精神的不安でもないのに、かなりの頻度で休む先生がいました。ただでさえ授業数がキツい所に、同じ学年だったので、その先生の自習監督がちょくちょく回ってくるのです。なんでその先生が休むのかというと、「組合の役員」だったので、その会合に出て行くからなんですね。(役職は伏せさせてもらいます。)週1回とまでは行きませんが、1~2週に1回くらいの割合で会議に出ていくので、残った者としてはたまったものではありませんし、そもそも組合員じゃない先生(「非組」と呼ばれていましたが、今や「非組」の方が多数派になっているのも時代の流れですね。)は公然と「なんで組合の会議なんかに出てるヤツの尻拭いしなけりゃならないんだ!」と、自習監督を断っていました。まぁ気持ちはわかります。

ところでこの時期、私も遅ればせながらパソコンを導入し、ISDN(死語3)で接続してネットスケープ(死語4)でつないで、ネットサーフィン(死語5)を始めました。いろいろとあんなサイトやこんなサイトや、イケナイサイトなんかにつないで面白がっていたのですが、その中で「日教組」やら「北朝鮮」やら「社会党(死語6)」やらについて見ていくうちに、色々な疑問が浮かびあがってきました。もちろん、今みたいに「ググる」と何でも出てくるわけではありませんでしたが、それでも断片的な情報をつないでいくうちに、「おかしいんじゃないか?」という違和感がどんどんわいてきて、関連して「朝鮮進駐軍」やら「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」やらについての情報を読んでいき、疑問が確信に変わりました。はい、そうです。ここに一人、立派な「ネトウヨ」が誕生したのです。

思い返せば、自分が小学校や中学校の時の先生がさかんに「日本は戦争で悪いことをしてきたから中国や朝鮮の人には申し訳ないと思わなければならない」だの「ハングルは世界で最も優れた言語だ」などという、今にしてみれば戯れ言を、何かと言えば授業の余談としてぶっ込んできていたのです。まぁ老害である私の小学生の時には、まだ学生運動が行われていて、何だかよく分からないけど急に放課後活動がなくなって下校させられ、「先生方がストやるんだって」とか言いながら嬉々として帰っていったことなんかもありましたから、当時の学生や先生の左傾化は甚だしかったのでしょう。そして何より、何となく「先生が言うんだからそうなんだろう」と、立派な自虐史観を植え付けられていたのです。

さて、そんなこんなで「組合」というものに疑問を持つようになったところに、決定的な出来事がおきました。その「組合の役員」の先生に、私のクラスも授業を持ってもらっていたのですが(まぁ何度自習監督に行ったことやら)ある月の職員会議の中で、校内研修会のその先生の授業を、担任の私に何の断りもなく私の学級で行う、といきなり言い始めたのです。寝耳に水の私は「聞いてないよ~!(とは言いませんでしたが)」

 (・・・合掌)

「今初めて聞きましたが、どういうことですか?」と質問したところその先生に、「私は担任持っていないんだから仕方ないでしょ!」と逆ギレされたのです。(当時三十代前半だった私より、多分十歳くらい年上だったと思いますが、前述の分会長同様、「組合の役員」であるその先生は、「会議に出ることが多いから」副担任だったのです。)たった一言、前もって「研究授業で先生のクラス使わせてくれるかい?」と聞いてくれればよいだけの話なのです。なぜその一言が言えないのか?自分より若いと思って嘗めてんのか?!今の私だったら「そんな非常識な話があるかコラ!これがおまえらのやり方か~!」

とケンカできたかもしれません。でも当時、相手は年上だし、チキンだった私は不承不承ひっこみました。そしてその瞬間に「こんな馬〇が役員やってエラソウにして、会議と称して休みまくってる組織になんて居られるか!」と思い、次の日当時の分会長に申し出て、組合を脱退することにしたのです。

労働条件が劣悪だった時代に(今でもですけど)組合活動は一定の成果を上げていたのだろうとは思います。そしてやめた理由は、組合と言うより一個人に対する憤りがほとんどですから、組合そのものに対して、疑問はあれど含むところはあまりありません。しかしながら、最初の学校で、27歳の時に分会長をさせられ、当時の校長と延々日の丸がどうの戦争犯罪がどうの、全然正しいことを知らないくせに、組合の先輩から聞かされた内容だけを頼りに、理屈にもなっていないたわ言を垂れていた自分を思い返すと、慚愧の念に堪えません。あの時の校長先生には、本当に申し訳なかったと思います。お恥ずかしいかぎりで、この場で懺悔させていただきます。無知の極みでした。

(考えたら、あまり中学生には読んでほしくない内容でしたね。次回はもっとライトな内容を書かせてもらいます。)