ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

授業の中の小ネタその3(アイスプラネットその他)

前回の続きです。アイスプラネットの中で、ぐうちゃんの話を、僕の母であるぐうちゃんの姉は「みんなほら話なんだから」と言い、僕も「どうせほら話だから」と言います。ところどころ「そんなのうそだろ。」とか「うそだぁ。ありえねぇ。」とかとも言っています。そして僕はお別れのシーンで「ほらばっかりだったじゃないか。」と独り言を言います。

で、私は授業の中で、最初の「みんなほら話なんだから。」というところで、「ほら話って意味分かるかな?」と発問します。生徒はたいてい「うそ」と答えます。もちろん、まったくの間違いではありませんが、そこで私は「うそ」と「ほら話」「ほら吹き」とでは、微妙にニュアンスが違うことを説明します。と同時に、「ほら吹き」の語源についても発問してから説明をします。つまり、昔の山伏の修行中や、武士の戦いの合図などで、ホラ貝を吹いていたことから「ホラ吹き」という言葉ができ、それは相手をだますための「うそ」というよりは、「大げさ」とか「話を盛る」というニュアンスが出てくる。さらにいえば「スケールの大きな与太話」という感じも出てきます。

「大言壮語」だとまた嫌なイメージになりますが、「うそ」の持つ「ちょっと真実味を混ぜたマイナスイメージ」と比べると、「ほら」「ホラ吹き」の方には、言う方は相手を楽しませようとするような、聞く方はダマされることを承知で喜んでいるような、「最初からちょっぴり無邪気なニュアンスや、プラスのイメージがある」言葉というようにとらえています。

最後のお別れが「うそばっかりだったじゃないか。」と「ほらばっかりだったじゃないか。」とでは、怒りと寂しさの入り交じった「僕」の微妙な気持ちの現れとして、受ける印象が相当違ってくると思いませんか?・・・え?そんなことはない?私の勝手な思い込み?・・・お呼びでない?およびでない?こりゃまった失礼いたしましたっと!(←誤魔化すのには実に使い勝手の良い言葉ですね。)でも実際、「ぐうちゃん」の話は、一見うそのようにすら見える、非常にスケールのでかいお話でしたし、逆に日本という国のスケールの小ささが、対照的に見えてくるんだけれど、それも含めて明るくぱーっと笑いとばしてしまおう、そんな気分になってきます。そういえば昔の日本にはこんな人もいましたねw↓ スケールのでかいホラは日本を救うかも。(知らんけど)

地震日記3/22、23、24 お呼びでない(植木等 調): 月山で2時間もたない男とはつきあうな! 

(ついでに思い出したけど、大昔、故ジョージ秋山先生の「ほらふきドンドン」って漫画があったなぁ。あまりヒットはしなかったはずだけど。合掌。)

さて、このアイスプラネットの授業の最後に(大多数の先生がやっていると思いますが)大抵「ぐうちゃんの手紙を読んだあと、僕になりきってぐうちゃんに手紙の返事を書いてみよう。」という終わり方をし、原稿用紙に書かせて提出させ、「思考・判断・表現」の評価に使います。(・・・ヤダネェ世知辛くて)

で、「自由に書け。」とか言っておいて、あまり基準とかは設けたくないのですが、最低限入っていないと減点するのは①「ぐうちゃんの話がほらではなかったことがわかったこと」②「謝罪の言葉、もしくはぐうちゃんを疑ってすまない、という気持ちが表れていること。」の2点です。あとは言葉遣いや誤字脱字、内容の誤読、僕っぽい表現か?などを見ます。(辞書は与えているのですが、それでもやっぱり誤字での減点は多いですね。)

←寡聞にして知りませんでした。「悠君からの手紙」もあります!

ところで、こういう自由な文章を書かせると、一時期から非常に気になる表現が増えてきたように思います。(※ら抜き言葉とかのように目くじらを立てる気はないのですが。)例えばこういう表現。「僕が考えていたのは違くて、ぐうちゃんの話は本当だったんだね。」・・・どうですか?違和感を感じないあなたは、かなり若い方とお見受けします。テレビに出てくる人でも、平然とこの言葉を使いますし、ひょっとしたらもう一般的になっているのかもしれませんが、私ら老害世代は強い違和感を感じます。

何かというと、「違くて」の部分です。私は正直日本語文法についてはあまり得意ではなく、大学の時の「国語学」の授業がかなり苦痛でした。(担当だった吉見先生には申し訳ありませんが)その私でも、「違う」はワ行五段活用の動詞であり、形容詞ではないことくらいはわかります。ところが若い世代は今でも心が通い合い、現にホンルは形容詞的な活用、つまり「ちがくて」「ちがかった」という使い方をする場面をよく見かけます。似たようなことは「きれい」でも見受けられます。「きれい」は「きれいだ」という形容動詞の省略形ですが、「い」で終わるので形容詞だと思うのか、「きれいだった」ではなく「きれかった」「きれいくない」などと言う子をたまに見かけます。あ、そういえば「好きくない」もよく聞きますね。

一応そういう言葉を聞くたびに、無粋ながら指摘して訂正を入れますし、文法の授業の時には、必ず誤った例として取り上げますが、いかんせん文法の授業というのが、馬耳東風というかのれんに腕押しぬかに釘、というか、死んだ魚の目になるというか・・・なかなか理解させられません。国語教師としての責任を感じる今日この頃です。(・・・と、とりあえず殊勝なフリをしておこう。)小ネタシリーズはまた近々書かせていただきます。よろしければまた読んでやってください。(次回は台風14号接近の中のキャンプネタを。)

 

 

 

 

 

授業の中の小ネタその2(アイスプラネットについて①)

前回古典の授業の中で使った小ネタなどを、思いつくままに打ってみましたが、そういえばこの教材のときにはこんな小ネタ(というかムダ話?)をしていたなぁ、と思い出すことが。他にもいろいろとありましたので、そこはかとなく書きつけてみようかと。(けっしてスノッブぶるつもりはないのですが、鼻につきましたらスルーしていただければありがたいです。)おそらくとびとびでシリーズ化することになると思います。では、今回のお題はこちら。光村図書2年生「アイスプラネット」 作 椎名誠

私は一時期、椎名誠にドハマリしていた時期がありました。といっても別に嫌いになったわけではなく、あまりに出る本出る本買っていたため、他の本と合わせて家の中の面積を圧迫してきたものだから、ある時期に家のほとんどの本をブック○フに売りはらい、よっぽどでなければ新しく本を買うのをやめよう、ということにしたのです。それ以来、椎名誠の本も買っていませんが、「わしらは怪しい探検隊」や「哀愁の街に霧が降るのだ」あたりから、もうむさぼるように読みまくっていました。嵐山光三郎椎名誠などの軽みのある、俗に「昭和軽薄体」と呼ばれる文の書き方には、かなり影響を受けました。(いや、お前のはぜんぜん違うだろー!というツッコミは甘受します。)

 何もこの画像を貼る必要はないわなぁ・・・

閑話休題(それはさておき)、この「アイスプラネット」の登場人物である「ぐうちゃん」こと「津田由紀夫」はフリーターです。ためたお金で、「カメラを片手に世界のあちこちを旅している」という設定は、モロに椎名誠自身の生き方が投影されています。というか、教科書用に書き下ろした作品なので、おそらく椎名誠自身が、中学生くらいの若者に、こんなことを伝えたいという内容を、自分自身がかつて撮った写真を使って(大ナマズやアイスプラネット)そのまま書いたものでしょう。そもそもぐうちゃんの風体が「細い目」「まっ黒」なのも、椎名誠自身そのままです。ぐうちゃんの語る「ほら話」も、椎名誠自身の体験談を活かしたものだと思います。若かりし時の思い出の小説やエッセイも面白いのですが、世界のあちこちを巡ってのエッセイ?ルポルタージュ?も、例の文体も相まって、文字通り抱腹絶倒の面白さなのです。

とはいえ、時代設定はフィルムカメラの時代だし、ちょっと使う言葉も古いものがまざっています。では、ムダ話その1。

「ぐうちゃんは、僕の母親の弟だけど、僕から見て何という親戚にあたるか、漢字で書けるかな?」と質問してみます。生徒は関係としては「オジサン」であることはわかりますが、漢字ということになるとわからない子がほとんどだし、文字がわかっても使い分けはわかっていません。そこで黒板に「伯父さん」「叔父さん」「小父さん」と三種類書き、「さてぐうちゃんはどのオジサンでしょう?」と質問し、どう違うのかを考えさせます。たまに正解を出す子もいますが、たいていは「父親の方と母親の方の違い」とか、甚だしいのは「男が伯父さんで女が叔父さんでどちらでもないのが小父さん」とか答える子がいたりしますw(ただ、昨今のLGBTQ?とやらの情勢から、単純に笑い飛ばすことができなくなってきたような・・・嫌な渡世だなぁ。)

お読みの皆さんはご存知とは思いますが、一応違いを説明しますと、「伯父(母)さん」=自分の親の兄(姉) 「叔父(母)さん」=自分の親の弟(妹) 「小父(母)さん」=血縁のない年配の人・・・ということを教えますと、みんな「なるほどー!」と納得します。したがって正解は「叔父さん」です。結構生徒は「ほー。」と納得します。(そういえば「斉」の話を、大学のとき漢文演習で習ったのを思い出しました。あの兄弟の名前で憶えておけばよいのですね。)続いてムダ話その2をば。

最初のページに出てくる言葉で、現代の生徒には理解できない言葉が「いそうろう」です。もちろん作者もそれはわかっているので、「」をつけています。先生説明してくださいね、ということでしょう。で、「いそうろう」の説明を付け加えるわけですが、さてなんと説明するか。(そもそも、アホな男子の中には、「いそうろう」という言葉の響きだけで、ニヤニヤしたり笑いだしたりする奴がいます。い○漏、と頭の中で変換しているわけですね。どうもこの思春期の男子のアホさときたら・・・とはいえ、私自身思い当たる点は多々ありますが。)

さて、辞書の説明どおりに「他人の家に住んで食べさせてもらっている人」でもいいんでしょうが、まず生徒には「どんな漢字だと思う?」と質問します。すなわち「居候」、その家の主人から「おーい、居るかぁ?」「はい、ここに居候」と答えるわけです。「ここにおります。」という返事のことだよ、と立場の弱さを教えます。そして、居候とは「仕事をしない、あるいはしくじって親に追い出される、これを勘当というわけだが、困ったドラ息子を親戚のおじさんやおばさんが助けてやり、家において食べさせてやる。こういう人を居候というのだよ。」と生徒に教えると、かなり多くの生徒が「それってニートじゃね?」といいます。

さて、ぐうちゃんは「ニート」なのでしょうか?これを考えさせたときに、生徒の多くが「ニート」と「ひきこもり」を同一視していることがわかりました。ぐうちゃんはまったく働いていないわけではなく、目的のためには自発的に、定職ではないにせよ、専門的なスキルが必要な、きちんとした仕事ができるわけで、働きたくなくてぐうたらしているのとはちょっと違うと思いますので、ニートとは言わないし、ましてや全国を回っているくらいだから、全くひきこもりではありませんね。むしろアクティブ〇鹿の域かと。

そして古川柳を二つ紹介します。①「これ、ぐうちゃんの好物」のところで、「居候三杯目にはそっと出し」(ぐうちゃんはたぶん大食いでしょう。椎名誠得意の「ワシワシとかきこむ」タイプの。でも、ただで食べさせてもらってるから、ちょっとは遠慮したんじゃないでしょうかw)

②「なにか力仕事などが必要になったとき」のところで「居候嵐に屋根を這い回り」(嵐の日に瓦とか直させられてるんでしょうかね。ぐうちゃんならやりそうだ。ただし自らすすんで。)居候の立場が少しでも明確になれば、と思って、全然関係ないけど教えたりします。

気づいたらムダ話を2つ書いただけで、とんだ長文になってしまいました。まだ1ページしか進んでません。これだもの授業が進まないわなぁ。ということでアイスプラネットについてその2に続きます。よろしければまた読んでやってください。

 

授業の中の小ネタその1(枕草子) 

三十数年も授業をやってくれば、やはり生徒の色々な変化が目につきます。特に授業内容にからめた雑談をしていく中で、「昔の生徒には通じても、今の生徒はポッカーン」な話題というものがどんどん増えてきます。もちろんコレは「今の子は物を知らなさすぎる!qあwせdrftgyふじこlp;@:「」!・・・とキレるのは無理筋で、「こっちが老害化しただけだ」と冷静にとらえてはいます。(もちろん逆もまた然り。こっちも生徒の話題にはポッカーンなわけで・・・)

さて、例えば清少納言枕草子」の秋の段。「烏の寝どころへいくとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあわれなり。」のあたりで、大抵私は「寝どころへ行くと、子どものカラスは何羽いるでしょうか?」と、なぞなぞともクイズともつかぬ発問をします。(リアルには秋ですから、多分巣立ちをしていて子ガラスはとっくにいないわけですが。)まぁ「ポッカーン」ですわな。そこで私はヒントとして「ほら、有名なカラスの歌があるだろ?」と聞いてみるわけですが・・・そこで問題です。お読みのあなた、「♪カ~ラ~ス~、なぜ鳴くの~♪」の歌の続きは何でしょう?はい、そうですね。生徒も「♪カラスの勝手でしょ~♪」と大合唱しますよw。

で、「それが何か?」と、何の疑問も抱かないあなたは、きっと40歳以下でしょうね。我々老害世代は(もちろん「勝手でしょ」の歌も知っていますが)幼稚園や小学校で、オリジナルの歌を習ったり歌ったり聞いたりしていますので、「♪カラスは山にかわいい7つの子があるからよ~♪」の方を知っています。つまり答えは「7羽」なんですよ。

ところが、20年くらい前からでしょうかね?カラスの元歌を知っている生徒というのが、本当に少なくなってきたんです。元歌はこうだよ、と教えるとまさに「ポッカーン」です。さらに、「それは8時だよ全員集合で、志村けんが作った替え歌なんだよ。」と教えると「エーーー!?」ってなもんです。そもそも私らくらいの老害世代じゃなければ、リアルタイムで全員集合を見ていないわけで、知らなくても無理はないわけですが、志村けんが作った、というのは全然知られてないというのが、逆に我々から言うとショックですね。(あと、「最初はグー!」というじゃんけんの合図も、全員集合から生まれた、というのも、ちょっとしたトリビアとしてついでに教えますが、これも全然知られてませんね。)

 「さん、はい。」で会場の子ども大合唱してましたね。

ちなみに、今回このブログで初めて知った方のために歌詞を書いておきますと(あれ!これって何とかラックにひっかかるのかな?古いから大丈夫かな?)

からすなぜなくの からすはやまに かわいいななつのこがあるからよ

かわいかわいとからすはなくの かわいかわいとなくんだよ

やまのふるすにいってみてごらん まるいめをしたいいこだよ

つまり、カラスは「カーカー」と鳴いているのではなくて、実は「かわいかわい」と鳴いているんだよ、とちょいとほのぼのしたネタになります。

さらに脱線して、「さて問題です。この歌の題名は何でしょう?」と聞いてみますと、まあほとんどの生徒は「カラス」「カラスなぜなくの」と答えますね。お読みのあなた、ご存知ですか?(正解はCMの後このブログの一番最後に書いておきます。)

そういえば、題名がクイズになる歌といえば、「♪春の~うららの~隅田川~♪」もまぁ題名はすぐ出てきませんね。大抵「春」「春のうららの」「隅田川」と答えます。こちらも正解を最後に載せますが、この滝廉太郎の歌なんかも、俳句や短歌の授業の時に、五七調、七五調の説明で、生徒の小学校の時の校歌を思い出させて説明したあとに(新しい学校はともかく、ちょっと歴史のある小学校だったらおおむね五と七の組み合わせの歌詞だと思います。)

あわせて、昔のアニメ主題歌や、昔の古い歌なんかを引き合いに出して例にしたりします。(タイガーマスクは正調の七五調ですよね。「しろいまっとの じゃんぐるに きょうもあらしが ふきあれる」巨人の星はよく見ると都々逸です。「おもいこんだら しれんのみちを ゆくがおとこの どこんじょう」w)

 

↑思い込んだら、です。重いコンダラではありませんw このローラーを「コンダラ」と勘違いしているヤツがいた、なんてのもネタとして使ったりしますね。元々のアニメでは歌詞は全部ひらがなで書いてあったので、まぁ誤解することはありえますわな。

しかしながら、「荒城の月」とか「箱根八里」とか、この「♪春のうららの~」とか(滝廉太郎ばかりですが)てっきり一つぐらい小学校で習ってるのかと思ったら「全然知らない」「習ってない」らしいんですよね。いや、時代の流れもあるでしょうし、「なんでこんな日本の誇るべき歌を教えないんだぁ~!qあwせdrftgyふじこlp;@:「」!」と逆上するつもりもありませんが、われら老害世代から言わせてもらえば、なんだかちょっと時代遅れで寂しい気持ちです。それではまた。

(PS それにしても自分が授業中脱線だらけなことに改めて気づいたわ。さすが老害。)

(答え  カラスなぜなくの→題名「七つの子」 春のうららの→題名「花」でした。)

夏の終わりのチェアリング

夏休みも終わり、返す返すも腹立たしいことに待ちに待った2学期が始まりました。

とある休日、かろうじて夏の雰囲気が残る崩れかけた入道雲を見て、ちょっとチェアリングでも、と思いたちまして、ワークマンのリュックに、クッカーとアルスト等を詰め込み、石狩浜方面に向けて「ただひとり、チャリよりまうでけり。」お馴染みの発寒川河川敷でも良かったのですが、この日は北海道マラソンがあったので、新川通を越えるのが面倒くさそうだと思ったです。家から石狩浜までは約15キロほど。往復30キロならそれほど疲労もしないだろうということでいそいそと出かけようとしたところで、カミサンからミッションを与えられました。曰く「石狩浜のパン屋でパンを買ってこい」との厳命御用命。最初は毎度お馴染みパスタでも茹でて食べようかと思っていましたが、ついでなら私もパンとコーヒーでまったり過ごすか?と思い、軽い追い風に乗って石狩浜を目指したのであります。

ポタリングに毛の生えた程度のスピードでのんびり走り、50分ほどで石狩の「番屋の湯」の手前にあるパン屋に到着したのですが、11時開店なのでまだちょっと時間がある。さて?ということで時間つぶしに石狩の町?をポタリング開始。

 

変に趣のある店やら、石狩の燈台やらを巡って戻ってくると11時3分。さて、パンを買うか、と思ってパン屋の前へ行くと、何ということでしょう!すでに8人ほどの大人が並んでいるではありませんか!慌てて自転車を止め、列の後ろに並びます。まぁその店というのが、知る人ぞ知る、というか私は来るのは確か3回目だから分かるけど、絶対に言葉で説明されても見つけられない、一見してとてもパン屋とはわからない、そんなたたずまいの店なのです。↓(どこがお店だかわかりますか?↓入り口もこんなの)

 

Soup  to BREAD という、ドイツパンのお店です。

https://www.instagram.com/souptobread/?igshid=14yb8b1x3ewh5

入店するときに人数制限がかかるような、かなり狭い店内は、いつもはカミサンが入っていたから気づきませんでしたが、ちょっと「自転車に乗ってやってきた汗だくでリュックを背負った還暦老害ジジイ」にはオシャンティーすぎて居心地が悪かったし、入店した後も続々店の前に人が並んでいるので、そさくさとカミサンに指定されたパン+自分の昼食用のパンを選び、急いで支払いを済ませて店外にでました。(店の方の対応は大変丁寧で心地よかったし、思えば別にそんなに急ぐ必要もなかったけれども。)

さて、買ったパンをどこで食べようか?最初は砂浜で食べようかとおもったのですが、

・・・結構寒々しい、演歌チックな秋の海でしたし、風もあったので砂まみれになるのも避けたい。さて、どこへ行くか?ということで付近をウロウロして見つけた場所がコチラ。

(光の反射で対岸が見えませんが)すぐ近くを流れる石狩川河畔の、おそらく旧渡船場のあたり?と思われる土手の上です。

まずはアルストを出し、家から持ってきたウィンナーと卵を炒めておかずとします。

 

モンベルのクッカーの蓋で炒めたのですが、さすがにちょっと小さすぎたか。卵を落としたらつぶれちゃったし。どうしてもこう「映える」写真になりません。

おまけにいざ食べようと思った時に、初めて気づいたのですが、「ウィンナーとソーセージがかぶってる!」じゃないですか!あーこのセンスのなさよ、トホホ。

気を取り直してコーヒーを入れようと、お湯を沸かしつつ、豆を碾いてペーパーフィルターに入れたそのとき!一陣の風が吹き・・・あーあ

 

・・・やらかしちまいました。勿体ないというか粗忽というか。さいわい以前の残り物のパックコーヒーがあったので、そちらで我慢するとしましょう。

 

この馬蹄形のパンは、かなり固いのですが大きなナッツなどが入っていて、なかなかのつわもので「ふまい!(歯ごたえ抜群!)」のです。ソーセージ入りのチーズパンのほうも、こってりした味わいで、どちらもコーヒーに合う!(碾いたコーヒーだったらもっと合ったかも・・・くそう)まったりと石狩川を眺めつつ、1時間ほど土手の上で過ごし、満足して帰途につきました。(ご案内の通り向かい風でしたが)10時に家を出て、2時ころ帰宅。たった4時間でしたが、いい休日をすごすことができました。

とはいえ、やっぱり泊まりがけでキャンプに行きたいなあ。時給900円で、部活なんて引き受けなければ、こんな心豊かに過ごせる時間がたっぷり取れたんだなぁ・・・

と、昨今少し話題が盛り上がってきたけど、絶対どうにもならない(どころかこの先間違いなくどんどんカオスになり、責任のなすりつけあいで混乱しまくるのは確定の)部活動というサブスク時間外労働に思いを馳せながら、しみじみと30数年間のロスタイム?を後悔したりして。(定年を目前に控え、「だが後悔はしていない」などときれいごとは絶対に言う気はないですね。やりたい人とか、やらせたい地域の人がやればいいとしか思わなくなりました。もちろん全くのムダではありませんでした。ものすごーく偏った範囲でのみ使えるスキルが身につきました。が、人生のトータル的には・・・なんだかなぁ・・・って感じです。)

 わかる、わかるぞ三井くん!

何とか今年中にもう一度くらいは、自転車キャンプの様子をお届けできればなぁと思っています。(誰得?)それではまた、お時間があれば読んでやってください。

 

 

 

老害のつぶやき 野球についてその③

前回「巨人の星」の話題で終わってしまいましたが、その影響も大きく、とにかく当時の少年はジャイアンツファンが多かった。そして日本全体そうでしたが、ONファンがやたら多かったのです。ですから当時、グローブやバット同様、誕生日プレゼントに「野球のユニフォーム」を買ってもらう子供も多かったのですが、自然と「ジャイアンツ風のユニフォーム」に、背番号3や背番号1をつけてもらう子が多く、一つのチームに1番と3番が2〜3人ずついる、という珍妙なチームができあがるわけですw

特に背番号3の人気が高かったのですが、これは長嶋人気だけではなく、小学生なりのセコイ目算がありまして、何かというと「俺は背番号3だから、サードを守る」という主張をするわけです。そしてそれがそこそこの説得力を持って通ってしまうところがアホな小学生らしいところですね。で、なぜサードが人気なのか、おわかりでしょうか?

われわれのやっていたのは超ヘボ野球ですから、ピッチャーの投げる球も遅く、きちんと判定したらフォアボールばかりでしたので、打てそうな球だったら全て「ストライク」と判定していました。なので遅い球を勇んで早打ちするものですから、みんな思い切り引っ張って三塁側に打つことになります。つまり三塁手は一番守備する機会が多くなるのです。逆に(当時右打ちの子供なんてほとんどいませんでしたから)二塁やライトにはほとんど球が飛んでこず、自然と不人気でした。一塁も内野からの送球を受ける場面が多かったのでわりと人気で、ゲームの前には三塁のところに背番号3が、一塁のところに背番号1が2〜3人ずつ集まって、目の色を変えてじゃんけんをしていたものです。「俺が長嶋」「おいらも長嶋」・・・何だかそんな落語の枕があったような?「蛙茶番」だったかな?素人芝居で忠臣蔵をやることになり、おかる勘平の場面で役を決めようとしたら「俺は勘平」「おいらも勘平」「あたいも勘平」と引かない。芝居が始まり幕が開くとずらりと勘平が並んでいて観客が「なんですこれは?」「へぇ、カンペイシキ(観兵式)でしょうな。」…というくすぐり。(→最初私もなんのことかわかりませんでした。)

閑話休題(それはさておき、なんて都筑道夫がルビを振ってましたね)そんな中私めも、親に巨人風ユニフォームを買ってもらっていたのですが、何番を背負っていたと思いますか?我ながらかなりセコい作戦だったなぁと、今にして思うのですが、私が背負っていた背番号は「5」番でした。(これで「ハハァーン」と思ったあなた、かなりの老人同世代ですねw)5番って誰だよ?とお思いでしょうね。当時のジャイアンツの5番は「黒江」という地味〜な(失礼)遊撃手でした。そうです。私は背番号3がじゃんけんしている隙に、静か〜に背番号5の守備位置であるショートに立っていたのでしたw(引張りバカばっかりだったので、ショートにも結構球が飛んできたのですよ。肩弱かったくせにね。)

「1番人気はピッチャーじゃないのか?」とお思いでしょうが、ピッチャーは基本「打ちやすい球」を投げる役目でしたから、コントロールが悪い(=打ちやすい球が投げられない)と文句を言われたり、間違ってぶつけたりすると嫌なので(泣くから)意外と神経を使ったりするため、実はそれほど人気は高くありませんでした。一塁手はゴロは来ないけど味方の送球を受ける場面が多く、人気のポジションでしたが、なにせヘボ野球ですから、高確率でショートバウンドの送球が来て、よく取り損なって腹やすねに当てて悶絶したり、後逸して慌てて球を追いかけたりしてましたね。(たまーにまぐれでキャッチできるとヒーローになれましたが。)

そして一番人気の無かったのは、おわかりかと思いますがキャッチャーです。マスクやプロテクターなんて持ってないからファールチップが怖いし、投球がショートバウンドして急所に当たって悶絶したりするので、バッターボックスから2メートルくらい離れた所で構えるのは当たり前、人数が足りなかったりすると攻撃チームからキャッチャーを出して「振り逃げ、盗塁無し」のルールでやってましたな。

ベースなんてないので、かかとやバットの尻で地面に描いたり、段ボールを拾ってきて石を載せておいたりしてました。小学校のグラウンド1面で4カ所くらい同時に(つまり8チームが)やっているなんて当たり前。当然バックネット前が一番人気なので、授業が終わってから、大急ぎで持ってきていたグローブを、ホームベースの所に置いて場所取りをしたりしました。それでも5年生の時に、せっかく早く行って場所取りしたのに、後から来た6年生に強引にどかされ、ブツブツ文句をいいながら別のところに移動したり。(リアルジャイアンですね。)

そもそも私は小学生のときに、親の転勤で今とは違うところに住んでいたのですが、大学生になって道内をツーリングしたときに、昔ゴムボールで野球的なことをやっていた広場を訪れてみて驚きましたね。あのころ全然普通に何人も集まって三角ベースをやっていた、結構広かったイメージの場所が、ほんの7、8mほどしかない、猫の額ほどの広さだったのです。こんな狭いところで、小学生が何人も集まって、日が暮れるまで遊んでいたんだなぁと。

でも考えれば、磯野カツオ君も、ジャイアンスネ夫達も、こんな感じの所でやっていて、カミナリさんに(←これはオバQもか?)怒られていたんですよね。公園でキャッチボールをしている姿も見なくなりましたし、場所によってはキャッチボール禁止なんてところもあるようです。(そもそも「公園で遊んでいる中学生の声がうるさい!」と学校に苦情電話が来る時代ですしね。)

 いつもの空き地(スペース可変)】なぜあの広さで野球やジャイアンのリサイタルをするのか? | ドラまとめ

ここで老害ジジイのお得意なフレーズ「昔はよかったなぁ、しみじみ。」・・・おあとがよろしいようで。

 

老害のつぶやき 野球についてその2(巨人の星)

ご案内の通り、還暦老害ジジイである私が、今よりずっと若かったころ(ビートルズの「Help!」を思い出しますね。When I was Young so mach younger than today〜)北海道の小学生男子は8割方YGマークのついた黒いキャップをかぶっていました。たま〜にお父さんの趣味なのか、HTマークの帽子をかぶっている子もレアキャラとして存在しましたが、今の北海道の子のように、ファイターズの帽子をかぶっている子など一度も見たことがありませんでした。(そもそも当時ファイターズだったかどうかも記憶がありません。まだ東映フライヤーズとかだったかもしれません。スワローズは間違いなく国鉄スワローズでしたが。)

当時プロ野球チームのない北海道としては、どこかを応援するなら強いところ、ということもあったのでしょうが、やはりひとつは「ON」の人気だったと思います。やはり王、長嶋という当時の超ビッグスターの影響は凄まじかったのですよ。で、大人はそれとして、子供の人気は絶対に「巨人の星」のせい?おかげ?でしょう。

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  星飛雄馬           花形満        (誰だおまえ?)


もちろんそれ以前にも、巨人軍をメインにした野球マンガはいくつかあったようですが(調べたら「ちかいの魔球(ちばてつや!)」「黒い秘密兵器」など)それらの中でも「あしたのジョー」と共に「巨人の星」を、私達小学生(やそろそろ増えてきていた「大きなお友だち」)が少年マガジンの発売を、どれほど楽しみにしていたことか 。まぁ確かに、負けてばっかりのチームに主人公を入れたら、漫画にはなりませんわな。おまけにリアルヒーローのONもいるし、漫画で勝ちまくっても、それなりにリアリティがあって、パラレルワールドの話のように感じさせてくれたものです。

とはいえ、「ちかいの魔球」という題名からわかるように、やっぱり「必殺技」としての「魔球」は欠かせなかったようです。その破天荒な魔球と、リアルな王や長嶋や川上(監督)が出てくるという、パラレルワールドチックなコーフンがありました。そして合わせ技としての「特訓」も、小学生はよく真似していましたね。当時青少年が体を鍛える道具としてよく使われていた「エキスパンダー」のバネをはずし、「大リーグボール養成ギブス」もどきを作っていた小学生を2人記憶していますw(そういえばブルーワーカーってのも結構流行ったなぁ。貧弱な坊やと馬鹿にされていた、ってヤツですね。)とはいえ、さすがに小学生でもちょっと現実的な生徒はいるもので、高学年になると大リーグボールについて疑問を抱く子が多くなってきました。(以下、巨人の星を知らない人には全く伝わらない話が続きます。)

そもそも大リーグボールは、星飛雄馬の投げる球が「スピードがあり、コントロールは抜群なのだが、球質が軽く、バットに当たると軽々と飛んでしまう」という欠点を克服するために生み出されたものです。大リーグボール1号は、その軽い球質を逆手に取り、わざとバットを狙ってぶつけ、跳ね返った球でアウトを取る、というものでした。一応ライバルの花形満が顔の正面にバットを構え、ビーンボール(故意に頭を狙った死球)ではないか?とクレームをつけたのですが、審判団の前もっての協議の末セーフだと(かなり無理筋な)説明をつけていました。花形はまた、投げた瞬間にバットを体の後ろに隠す作戦にも出ましたが、そもそも色々な特訓で、打者がどこにバットを出すかを予測できるようになった飛雄馬は、バットを狙わず普通にストライクをとる、ということで対処しました。さて、最終的に別のライバルであるアームストロング・オズマがまず一度ストライクゾーンにバットを出し、そこに投げ込んだボールをものすごい早さでバットを引き、同じコースをスイングする(見えないスイング、と言ってましたね)ことでホームランにする、という方法で大リーグボール1号を攻略しました。アホな小学生は「なるほど~」と納得したものですが、ちょっと賢いヤツはすぐに矛盾に気づいてましたね。皆さんおわかりですか?・・・そうです。花形の時の対処と同様に、「どこにバットが出るか分かっているなら、そのコースを外して投げればよい」のですw

同様に、大リーグボール2号、いわゆる「消える魔球」についても、「そもそもストライクゾーンに来た球が、地上すれすれまで落ちて、そこからまたストライクゾーンに浮き上がってくる」などという、Ωを逆にしたような、すさまじい変化をさせられるのならば、「別に球を消さなくても、変化球投手として十分通用するんじゃね?」と思っていた子どもは日本中にたくさんいたはずです。

大リーグボール3号。「アンダーハンドで超スローボールを投げ、あまりにもふわふわと飛んでいるので、バットスイングの風圧で球がバットからよけてしまう」というものでした。これについても、「バッターがスイングしないで強く息を吹きかければ、球が全部ストライクゾーンから外れて簡単にフォアボールになってしまうんじゃないか?」という、激しく簡単な攻略法に気づいた子もいましたね。

まぁそもそもマンガにリアルを持ち込むのは野暮だとわかっていますが、そういう無理筋があったにしても、「巨人の星」は面白かったです。とはいえ、その後の「侍ジャイアンツ」の番場蛮の投げる「ハイジャンプ魔球」「大回転魔球」はそもそも投げるたびに「ボーク」だと思うし、「分身魔球」はおそらく「ボールに加工する」という反則投球になるのではないか?と、登場した当初から、「巨人の星」の時より少し大人になっていた我々の間では定説になっていましたね。(アストロ球団の話はやめておきましょう。ただ、長嶋や金田が監督として完全に悪役に回っていたのはちょっと目新しかったですね。)

  

投げるかなり前にプレートから足が完全に離れている、投げる前に横や後ろを見ている、投げる前に故意にボールを変形させている・・・アウトですよねw(と思ってググってみたら、結構論争になってたようです。世の中の多くの人が違和感を感じていたんですね。)

長くなってしまいましたが、とにかく野球好きの少年達にとって「巨人の星」は一時期間違いなく「バイブル」でした。それにしても、「星飛雄馬」というネーミング、話の中では「前のめりに死んでいった坂本龍馬から取った」とされていましたが、実は「ヒューマン=人間的な」という意味だ、と何かの本で読んだ時には軽く感動を覚えました。確かに巨人の星の最後は、人生とは何か、について考えさせる終わり方でしたね。と共に、「星一徹」も、「星明子→明星」も、実に深いネーミングだと思います。原作者梶原一騎は、実はあまり野球に詳しくなかった、という説がありますが、少なくともネーミングセンスは「すごい」の一言に尽きると思います。

巨人の星」を初めとした、マンガの話だけで長くなってしまいました。が!野球についてその3に続きます。老害が思い出す、昭和のどうでもいい雑談話でよろしければ、また読んでやってください。どっとはらい

 

老害のつぶやき 野球の思い出その①

あまり大きな文字では書けませんが、よく聴くYoutubeの番組の一つに、「伊集院光 深夜の馬鹿力」というのがあります。(人気番組なのになぜ大きな声で言えないかというと、radikoとかではなく、Youtubeのいわゆる「野良動画」を聴いているからです。)

その「深夜の馬鹿力」の中に、「教えて老害さん」というコーナーがあります。いわゆる「Z世代」(を装った?)リスナーが、「老害」を自称する伊集院さんに、時代遅れになった昔のことを聞いて話のネタにする、という内容です。伊集院さんはまだ五十代半ばなので、「老害」は自虐的ギャグで言っていると思いますが、年代の近い私としては毎回送られてきたネタに「有ったあったぁそいういうの~!」とついニヤけてしまうコーナーです。

で、私自身も「老害」を自称することが多々ありますが、これはもう「還暦」を迎えたし、そもそも表題通り体も頭も能力も「ポンコツ」なので、「自虐」ではなく「自覚」なのです。エッヘン!(胸を張るところかよ。)

プライドの高い人のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

結局何が言いたいかというと、私も自分の中で一番ポンコツ化の著しい、脳みそや記憶力の活性化を目指し、この60年間の思い出などを振り返って呟いてみようと思います。同年代の方や、昔のことに詳しい方で、間違いなどお気づきの点がありましたら是非コメント、ご指摘いただければ幸いです。

さて、今年の高校野球札幌大谷、旭大高ともに惜しくも一回戦負けになってしまいました。前評判では、大阪桐蔭に旭大高がどれだけボコボコにされるだろうか?などと(失礼な)炉辺談話をしていましたが、途中までリードしていたし、逆転された後もひょっとしたら同点?逆転?ジャイアントキリング?のような場面も2回あり、(あのライナーが抜けていればなぁ・・・)十分惜しかったと思います。私自身はそれほど熱心な野球ファンでもないので、北海道代表の試合くらいしか見ないのですが、私たちの年代の子供は、かなりの割合で野球少年でしたし、私自身も遊びと言ったら野球ばかりでした。(「僕は、小さい少年の頃、熱情的な収集家だったものだ。」という、「少年の日の思い出」の一節を思い出しますね。)

小学校の時にしていた遊びとして、もっとも人気の高かったのが、放課後に小学校のグラウンドや近所の公園に集まってやる、「野球的な何か」でした。グローブとバットを持って集まって、軟球を使ってやる場合もあるし、柔らかいゴムボールを使い、素手でボールを打って素手でキャッチするなんてのもありました。(狭いところでやる場合は、三角ベースで一塁と三塁とホームだけでやっていましたね。)柔らかいゴムボールでやる時は、「ぶつけ有り」というルールもありました。ランナーが走っている時に、ボールをぶつけたらアウトにできる、というものです。一塁手とかに送球すると、素手だから良い球を投げてもすぐはじくんですよね。それでみんなどちらかというと「ぶつけ」を選択することが多かった。(あれはきっと「人に堂々と物をぶつける」ことにカタルシスを感じてもいたんでしょうね。)

その当時、誕生日のプレゼントとして、グローブやバットを買ってもらうというのが非常にポピュラーでした。バットは当時木製バットが主流でしたが、高校野球で金属バットが使われ始めた時期でもありまして、小学生4年生の時だったかな?学級のみんなでお小遣いを出し合い、学級専用の金属バットを一本買ったことがありました。今にして思えば、メーカーすら怪しいまがい物だったと思いますが、それでも他のクラスと対戦する時にはうらやましがられ、私のクラスの生徒はドヤ顔でこれみよがしに使っていたものでした。(だからって勝てたわけではありませんが。)クラス替えがあった後、あのバットは誰が管理していたのか、今となっては知るよしもありませんが、「秘密兵器」と呼んでいたあのバットは、小学生の一時期、私たちの学級の宝物でした。

そもそもZ世代に限らず、若い人たちがここまで読んだ時に違和感を感じることと思いますが、私らの世代は今とは違って、放課後学校のグラウンドを勝手に使って野球をしたり、自転車を乗り入れて走りまわったりしていても、全然問題にならなかったのですよ。(もちろん北海道の田舎だったからかもしれませんが)昨今、夕方小学校のグラウンドを見ても、ビブスをきたサッカー少年団がたまに練習しているくらいで、野球をしたりドッジボールをしたり、ドヤ顔で自転車を乗り回している生徒を見かけることはありません。多分禁止されているんでしょうね。あるいは野球をするほど生徒が集まらないのか。何にしてもちょっと寂しい感じがします。

その当時でも、いわゆる少年野球チームはあったのでしょうが、我々の回りにはそういう生徒がいなかったし、そもそも「硬球」の存在を知らずに野球をしていました。軟球も宝物でしたから、草むらになんて打ち込んだら大変です。敵味方総出で捜しましたし、たまに落ちている軟球を拾ったりしたら大喜びでした。基本C球を使っていましたが、大人向けのL球を拾ったら「何か一回りデカくね?」と感じましたし、珍しいB球が手に入ったら、「やけに固いし、これが硬球ってやつなんじゃね?」とか思っていたりしましたね。(準硬式球という扱いらしいので、全くの間違いでもありませんが。)

野球をやるにしても、当時の基本は「学級単位」の対抗戦でした。休み時間に他のクラスと話をつけ、「今日放課後〇組と試合をやるから集まれ~!」などと言って、学級の男子が集まっては対抗戦のようなものをやっていたのです。まぁ当時は生徒数も多かったので、1クラスの男子だけでも十分対抗戦ができましたから、相手がいない時には「紅白戦」のような形で野球をしていました。やっぱりその中でも「うまい」と思われている子がリーダーシップをとり、それでも何となく実力均衡になるようにチーム分けをしていたような記憶があります。ああいう自然発生的なグループ分けや、打順やポジション決めを自分たちだけでやっていたことなんかは、結構子供らの精神的発達には役に立っていたように思います。

長くなってしまったので、その②に続きます。(何となく「語り部」になってきたような気分がしますが、それにしても打っているといろいろと思い出してくるものですね。「誰得」な老害の思い出話ですが、よろしければまた読んでやってください。どっとはらい。)

実家で見つけたビンテージもといポンコツギア

先日、実家の物置で、私がまだ大学生の時に使っていた古ーいキャンプ道具を見つけました。今を去ること40年ほど前、北海道半周バイクツーリングで使っていた代物です。色々なものが出てきたのですが、とりあえず2点、引っ張り出してどんなものだか展開してみました。

その1 メーカーも分からないけどまだ使えそうなアルミのクッカー

で、このフライパンをよく洗ってから使ってみたのですが・・・普通に使えましたね。 

 (前にも使ったなコレ。日本の工業製品は世界一ィィィ!)

ヒロシさんとかが使ってる、スノー〇ークのアレとか欲しかったけど、このポンコツビンテージギアを使ってみるのも一興かな?百均で袋を探して使ってみようか。私自身は全く覚えていないけど、どなたか、どこのメーカーのものだかご存知の方いらっしゃいますかね?(ジジイ高齢者限定になりますな。)ちなみに、この時一緒に買ったのが以前も紹介したコレ↓プリムス2273 40年経っても全然大丈夫、日本の工業製品は以下略

その2 ダンロップのツーリング用テント

 (登山4人用テントと書いてありますが、無理!)

張ってみた。

 

多分ポールはアルミ製だと思うんだけど、あちこち白く粉を吹いていたように見えました。(アブねぇなおい)

 

フライを掛けました。パッと見何となくまだまだ使えそうに見えますが、やっぱりビンテージというかレトロというかポンコツというか・・・

ポンコツその1 背面の通気口がコレだけ。(内側から紐で引っ張って塞ぐ形。)ちょっとカワイイかも。それにしてもこんなのだったっけ?

ポンコツその2 床の部分と、メッシュの部分が別体で、しかも留められていないのでアリとかダンゴムシとかが、隙間から遠慮無く普通に這い上って入ってくる!

大学生の時には若く体力もあり、そして何よりも当時こんなのでも最新鋭のテントだったから、暑かろうが蒸れようが全然違和感なく泊まれていたけど、今だとかなりキツいでしょうなぁ。(そもそもカビ臭かったし。)入ってみると狭くて、対角線に使ってやっと一人寝られる(4人用ってどんだけドMなんだよ?)って感じでした。昔の登山用ってこんなもんだったのかな?

というわけで今回は、「誰得?」な画像を貼らせてもらいましたが、どうしようこのテント?メ〇カリで売れないかなぁ?骨董品として・・・ウィスキーとかの40年物だったら売れそうだけど、ムリだわなぁ。

(ちなみに、大学生の時乗っていたバイクがこちら↓)

GPz250BeltDrive(EX250C)の系譜 (コレの銀×紺のカラーリング)

何というか、ベルトドライブというだけで、特に早くもなく燃費が良いわけでもなく、曲がりやすいわけでもなく、「カワサキで、車検がない」というだけで買ったバイクでしたが、乗りやすくはありましたね。(教習所のホークⅡと比べれば、ですけど)上のテントを積んで北海道の東半分をぐるっと回った、何ともはや懐かしいバイクです。

(いや、そこまで大げさなものでは・・・)お後がよろしいようで。



 

 



 

 

教職員組合ってのがありましてね(慚愧と懺悔その2)

前回の続きです。相変わらず放課後の職員体育ぐらいしか活動らしい活動をしていなかったのですが、それでもバドミントン、野球、バレーボール、サッカー、バスケットボールと、いろいろな球技(卓球を除く)や、冬はスキー大会(はあまり出なかったけど)など、ストレス解消にはとても良い福利厚生行事として楽しんでおりました。

まぁどことはいいませんが、その組合を抜けることになった時の学校が、いわゆる「荒れた」学校でして、見た目は厳つい私ですが、朝起きると胃がキリキリ痛み、吐き気がとまらないようなことがよくあり、何回か体調不良で学校を休んだことがあるほどでした。細かく上げればキリのないほど、校内校外で虞犯行為、触法行為を繰り返す生徒がいて、その都度授業を自習にして対応したりして、普通に勉強したがっていた生徒には大変申し訳なかったと思います。

考えてみれば、三十数年の教師生活を振り返り、思い出したくもない年というのは幾つかありますが、何とかその疾風怒濤の年月を乗り越えてきたことで、教師生活で色々嫌なことや凹むことがあっても、「あの時よりマシ」と考えることが、心の支えだったように思います。もちろんそんな経験はしないで済む方がずっといいですし、そもそも「おまえ等がだらしないからそんな生徒になったんだろ。」と言われればそれまでですが、今は太っといブレザーのズボンを「ボンタン(死語1)」に仕立て直してくれたり、短ブレ(死語2)の背中に暴走族的なよく分からない文言の刺繍を入れてくれるような店もなくなったので、物理的に若干今の方が楽かもしれませんね。

さて、そんなこんなで先生方が毎日青息吐息で何とか授業をし、私も含めてたまに体調不良や精神的不安を抱えて苦しんでいる中で、前述の職員体育を数少ない楽しみの一つとして過ごしていたわけですが、そんな中で、特に体調不良でも精神的不安でもないのに、かなりの頻度で休む先生がいました。ただでさえ授業数がキツい所に、同じ学年だったので、その先生の自習監督がちょくちょく回ってくるのです。なんでその先生が休むのかというと、「組合の役員」だったので、その会合に出て行くからなんですね。(役職は伏せさせてもらいます。)週1回とまでは行きませんが、1~2週に1回くらいの割合で会議に出ていくので、残った者としてはたまったものではありませんし、そもそも組合員じゃない先生(「非組」と呼ばれていましたが、今や「非組」の方が多数派になっているのも時代の流れですね。)は公然と「なんで組合の会議なんかに出てるヤツの尻拭いしなけりゃならないんだ!」と、自習監督を断っていました。まぁ気持ちはわかります。

ところでこの時期、私も遅ればせながらパソコンを導入し、ISDN(死語3)で接続してネットスケープ(死語4)でつないで、ネットサーフィン(死語5)を始めました。いろいろとあんなサイトやこんなサイトや、イケナイサイトなんかにつないで面白がっていたのですが、その中で「日教組」やら「北朝鮮」やら「社会党(死語6)」やらについて見ていくうちに、色々な疑問が浮かびあがってきました。もちろん、今みたいに「ググる」と何でも出てくるわけではありませんでしたが、それでも断片的な情報をつないでいくうちに、「おかしいんじゃないか?」という違和感がどんどんわいてきて、関連して「朝鮮進駐軍」やら「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」やらについての情報を読んでいき、疑問が確信に変わりました。はい、そうです。ここに一人、立派な「ネトウヨ」が誕生したのです。

思い返せば、自分が小学校や中学校の時の先生がさかんに「日本は戦争で悪いことをしてきたから中国や朝鮮の人には申し訳ないと思わなければならない」だの「ハングルは世界で最も優れた言語だ」などという、今にしてみれば戯れ言を、何かと言えば授業の余談としてぶっ込んできていたのです。まぁ老害である私の小学生の時には、まだ学生運動が行われていて、何だかよく分からないけど急に放課後活動がなくなって下校させられ、「先生方がストやるんだって」とか言いながら嬉々として帰っていったことなんかもありましたから、当時の学生や先生の左傾化は甚だしかったのでしょう。そして何より、何となく「先生が言うんだからそうなんだろう」と、立派な自虐史観を植え付けられていたのです。

さて、そんなこんなで「組合」というものに疑問を持つようになったところに、決定的な出来事がおきました。その「組合の役員」の先生に、私のクラスも授業を持ってもらっていたのですが(まぁ何度自習監督に行ったことやら)ある月の職員会議の中で、校内研修会のその先生の授業を、担任の私に何の断りもなく私の学級で行う、といきなり言い始めたのです。寝耳に水の私は「聞いてないよ~!(とは言いませんでしたが)」

 (・・・合掌)

「今初めて聞きましたが、どういうことですか?」と質問したところその先生に、「私は担任持っていないんだから仕方ないでしょ!」と逆ギレされたのです。(当時三十代前半だった私より、多分十歳くらい年上だったと思いますが、前述の分会長同様、「組合の役員」であるその先生は、「会議に出ることが多いから」副担任だったのです。)たった一言、前もって「研究授業で先生のクラス使わせてくれるかい?」と聞いてくれればよいだけの話なのです。なぜその一言が言えないのか?自分より若いと思って嘗めてんのか?!今の私だったら「そんな非常識な話があるかコラ!これがおまえらのやり方か~!」

とケンカできたかもしれません。でも当時、相手は年上だし、チキンだった私は不承不承ひっこみました。そしてその瞬間に「こんな馬〇が役員やってエラソウにして、会議と称して休みまくってる組織になんて居られるか!」と思い、次の日当時の分会長に申し出て、組合を脱退することにしたのです。

労働条件が劣悪だった時代に(今でもですけど)組合活動は一定の成果を上げていたのだろうとは思います。そしてやめた理由は、組合と言うより一個人に対する憤りがほとんどですから、組合そのものに対して、疑問はあれど含むところはあまりありません。しかしながら、最初の学校で、27歳の時に分会長をさせられ、当時の校長と延々日の丸がどうの戦争犯罪がどうの、全然正しいことを知らないくせに、組合の先輩から聞かされた内容だけを頼りに、理屈にもなっていないたわ言を垂れていた自分を思い返すと、慚愧の念に堪えません。あの時の校長先生には、本当に申し訳なかったと思います。お恥ずかしいかぎりで、この場で懺悔させていただきます。無知の極みでした。

(考えたら、あまり中学生には読んでほしくない内容でしたね。次回はもっとライトな内容を書かせてもらいます。)

 




教職員組合ってのがありましてね。(慚愧と懺悔その1)

37年前、初めて勤めた中学校。まぁ最初に登校した時は緊張しましたなぁ。4月1日の最初の朝の打ち合わせで、とっちらかって何言ってんだかわからない様子でゴニョゴニョさえない自己紹介をし、何言ってんだかわからない最初の校長の施政方針演説?的な物が始まり、やがて学年や分掌の発表になった時、いきなり先輩教師の一人が「やめろやめろ!誰も聞いてないぞ!」と自席から大声を出したのにビビったところから、私の教師生活は始まりました。当時は何のことだかわからなかったのですが、次の年から「主任めいか(漢字を忘れました。「めい」は名だと思うのですが、「か」は加?課?何にしてもググってもでてきません。)」をする校長への抗議だということがわかりました。その当時、「主任制反対」「日の丸・君が代(略して日の君)反対」が、組合の活動として最も日常的なものでした。

さて、いきなりそんな罵声にビビり(ちなみにその先輩は、後に大校長になり、今でもお付き合いさせていただいていますが、当時は怖くて近寄り難かったです。)わけのわからない状況で昼休みになりましたら、同じ学年の先生に「ちょっと来て」と呼ばれ別室に連れて行かれました。そして、1教室びっしりに先生方が集まっていて、何だかよくわからないままに「組合員」にさせられていました。正直ノンポリもいいところだったので、「よく分からないけど、ほとんどの先生がいるんだから、まあそんな悪いことにはならないだろう。」くらいのぼんやりした気持ちで、特に拒否するわけでもなく(というか例の先輩が怖くて拒否も出来ず)そのまま組合員になり、教師生活が始まりました。

 

当時、その学校の組織率は多分8~9割くらい組合員だったと思います。ハッキリ言って組合という組織は、聞いたことはあるけど、「労働条件向上のために交渉とかする団体」くらいのイメージしかなくて、具体的にどんな活動をしているのか全くわからなかったのですが、まず先輩から何を言われたかというと、「職体(教職員による体育大会)があるから、春はバドミントンから始まるんで、放課後練習するから残ってね。靴とかジャージとか持ってきて。」ということでした。私は走るとかは苦手ですが、球技は卓球以外は大好きだったので、「こりゃあ楽しみだワイ❤」とばかりに、毎日部活が終わってから学校開放が始まるまでバドミントンの練習をし、同僚の若い先生と帰りがけ一緒に飯を食べたりして、とても気楽になじむことができました。また、先輩の先生方も、職体が終わった後欠かさず飲み屋で反省会、というか単純な飲み会を開いてくれ、いろいろな話を聞かせてもらって、とてもいいコミュニケーションがとれていたと思います。組合費は取られるし、飲み会の回数は多いしで、今考えれば結構な出費だったわけですが、それを補って余りある楽しみをえることができました。

いまでこそ私は、まぁ右翼と言っても良いくらいの思想傾向がありますが、当時はよく分からないまま、今は亡き社会党を支援し、勤務時間が終わったら「オルグ」と称して会合に出かけたりビラ配りをしたりという、今にして思えばまぁ赤面の至り。職員体育という甘い餌で釣って、構成員を増やしていくなんぞ、いわゆる「お左翼」の常套手段に軽ーく飲み込まれていたのです。(※もちろんこれは世間知らずでノンポリの私自身の責任です。)けれども、やはり職員体育は楽しかったし、先輩の組合員の先生は、夏休みに海水浴やキャンプ、冬には温泉&スキーなど、楽しい催しをどんどん与えてくれたのです。福利厚生という面では、確かに「組合」は魅力的でした。

ところが教師になって4年目、やっと卒業生を出し1年生を担任し、その生徒達を2年3年生と持ち上がって担任するんだろうなぁ、と思っていた矢先に、「引き受けてくれる人がいないから」という理由で、27歳の時に「分会長(各学校の組合の責任者?見たいな役職)にさせられてしまったのです。その前の分会長が、同じ部活動の顧問をしていて、とてもお世話になったので、とても嫌だったけれど引き受けざるを得ませんでした。今はどうか知りませんが、分会長は会議とかで校外に出ることが多く、担任をやらない、というのが不文律でした。今はもう定年間近なので、この2年間は副担任をやっていますが、担任から外れたのはこの分会長の時と、教科の持ち時間数の関係で、週23時間国語の授業を持った時だけです。(これだけ授業を持つと、担任をして学活や道徳を入れると空き時間がなくなるんですよ。)まだ若くて元気もあり、何より1回卒業生を出すと担任が面白くなってくるもので、当時は何だか理不尽さを感じずにはいられませんでした。

それでもよく分からないなりに、校長と「団体交渉」をして卒業式で国旗をあげないよう、あるいは国歌斉唱をさせないよう(起立もしませんでしたなぁ。あー赤面)3~4時間も膝詰めで話し合ったり、5月1日にはメーデーと称してプラカードを作って行進したり、「動員」を掛けられて北海道庁の階段に、何をするわけでもなくただ数合わせのために半日座り込みをしたりなどという活動をしました。次の年に分会長を代わってもらった時には、本当にほっとしました。

ツイート画像20枚あり。君が代のページを隠すおかしな先生の授業を受けた方々が多くて驚いています。 #密告したかった授業 #日教組撲滅 #全教撲滅  #日教組 #教科書 - #野党とマスコミは敵の手先

↑今だにこんなことやってるんですねぇ。探したら他にもたくさん出てきました。

とはいえ、一組合員としての活動は(基本職員体育が中心ですが)続けていたのですが、ある時ふぃっと組合に嫌気がさし、いきなり組合を脱退することにしました。長くなってしまったので、そのあたりの経緯はまた次回書かせてもらいます。駄文長文失礼しました。(今回はギャグも茶々も入れず、単純な思い出話を書きましたが悪しからず。多分次回も。)