ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

老害のつぶやき 野球についてその③

前回「巨人の星」の話題で終わってしまいましたが、その影響も大きく、とにかく当時の少年はジャイアンツファンが多かった。そして日本全体そうでしたが、ONファンがやたら多かったのです。ですから当時、グローブやバット同様、誕生日プレゼントに「野球のユニフォーム」を買ってもらう子供も多かったのですが、自然と「ジャイアンツ風のユニフォーム」に、背番号3や背番号1をつけてもらう子が多く、一つのチームに1番と3番が2〜3人ずついる、という珍妙なチームができあがるわけですw

特に背番号3の人気が高かったのですが、これは長嶋人気だけではなく、小学生なりのセコイ目算がありまして、何かというと「俺は背番号3だから、サードを守る」という主張をするわけです。そしてそれがそこそこの説得力を持って通ってしまうところがアホな小学生らしいところですね。で、なぜサードが人気なのか、おわかりでしょうか?

われわれのやっていたのは超ヘボ野球ですから、ピッチャーの投げる球も遅く、きちんと判定したらフォアボールばかりでしたので、打てそうな球だったら全て「ストライク」と判定していました。なので遅い球を勇んで早打ちするものですから、みんな思い切り引っ張って三塁側に打つことになります。つまり三塁手は一番守備する機会が多くなるのです。逆に(当時右打ちの子供なんてほとんどいませんでしたから)二塁やライトにはほとんど球が飛んでこず、自然と不人気でした。一塁も内野からの送球を受ける場面が多かったのでわりと人気で、ゲームの前には三塁のところに背番号3が、一塁のところに背番号1が2〜3人ずつ集まって、目の色を変えてじゃんけんをしていたものです。「俺が長嶋」「おいらも長嶋」・・・何だかそんな落語の枕があったような?「蛙茶番」だったかな?素人芝居で忠臣蔵をやることになり、おかる勘平の場面で役を決めようとしたら「俺は勘平」「おいらも勘平」「あたいも勘平」と引かない。芝居が始まり幕が開くとずらりと勘平が並んでいて観客が「なんですこれは?」「へぇ、カンペイシキ(観兵式)でしょうな。」…というくすぐり。(→最初私もなんのことかわかりませんでした。)

閑話休題(それはさておき、なんて都筑道夫がルビを振ってましたね)そんな中私めも、親に巨人風ユニフォームを買ってもらっていたのですが、何番を背負っていたと思いますか?我ながらかなりセコい作戦だったなぁと、今にして思うのですが、私が背負っていた背番号は「5」番でした。(これで「ハハァーン」と思ったあなた、かなりの老人同世代ですねw)5番って誰だよ?とお思いでしょうね。当時のジャイアンツの5番は「黒江」という地味〜な(失礼)遊撃手でした。そうです。私は背番号3がじゃんけんしている隙に、静か〜に背番号5の守備位置であるショートに立っていたのでしたw(引張りバカばっかりだったので、ショートにも結構球が飛んできたのですよ。肩弱かったくせにね。)

「1番人気はピッチャーじゃないのか?」とお思いでしょうが、ピッチャーは基本「打ちやすい球」を投げる役目でしたから、コントロールが悪い(=打ちやすい球が投げられない)と文句を言われたり、間違ってぶつけたりすると嫌なので(泣くから)意外と神経を使ったりするため、実はそれほど人気は高くありませんでした。一塁手はゴロは来ないけど味方の送球を受ける場面が多く、人気のポジションでしたが、なにせヘボ野球ですから、高確率でショートバウンドの送球が来て、よく取り損なって腹やすねに当てて悶絶したり、後逸して慌てて球を追いかけたりしてましたね。(たまーにまぐれでキャッチできるとヒーローになれましたが。)

そして一番人気の無かったのは、おわかりかと思いますがキャッチャーです。マスクやプロテクターなんて持ってないからファールチップが怖いし、投球がショートバウンドして急所に当たって悶絶したりするので、バッターボックスから2メートルくらい離れた所で構えるのは当たり前、人数が足りなかったりすると攻撃チームからキャッチャーを出して「振り逃げ、盗塁無し」のルールでやってましたな。

ベースなんてないので、かかとやバットの尻で地面に描いたり、段ボールを拾ってきて石を載せておいたりしてました。小学校のグラウンド1面で4カ所くらい同時に(つまり8チームが)やっているなんて当たり前。当然バックネット前が一番人気なので、授業が終わってから、大急ぎで持ってきていたグローブを、ホームベースの所に置いて場所取りをしたりしました。それでも5年生の時に、せっかく早く行って場所取りしたのに、後から来た6年生に強引にどかされ、ブツブツ文句をいいながら別のところに移動したり。(リアルジャイアンですね。)

そもそも私は小学生のときに、親の転勤で今とは違うところに住んでいたのですが、大学生になって道内をツーリングしたときに、昔ゴムボールで野球的なことをやっていた広場を訪れてみて驚きましたね。あのころ全然普通に何人も集まって三角ベースをやっていた、結構広かったイメージの場所が、ほんの7、8mほどしかない、猫の額ほどの広さだったのです。こんな狭いところで、小学生が何人も集まって、日が暮れるまで遊んでいたんだなぁと。

でも考えれば、磯野カツオ君も、ジャイアンスネ夫達も、こんな感じの所でやっていて、カミナリさんに(←これはオバQもか?)怒られていたんですよね。公園でキャッチボールをしている姿も見なくなりましたし、場所によってはキャッチボール禁止なんてところもあるようです。(そもそも「公園で遊んでいる中学生の声がうるさい!」と学校に苦情電話が来る時代ですしね。)

 いつもの空き地(スペース可変)】なぜあの広さで野球やジャイアンのリサイタルをするのか? | ドラまとめ

ここで老害ジジイのお得意なフレーズ「昔はよかったなぁ、しみじみ。」・・・おあとがよろしいようで。

 

老害のつぶやき 野球についてその2(巨人の星)

ご案内の通り、還暦老害ジジイである私が、今よりずっと若かったころ(ビートルズの「Help!」を思い出しますね。When I was Young so mach younger than today〜)北海道の小学生男子は8割方YGマークのついた黒いキャップをかぶっていました。たま〜にお父さんの趣味なのか、HTマークの帽子をかぶっている子もレアキャラとして存在しましたが、今の北海道の子のように、ファイターズの帽子をかぶっている子など一度も見たことがありませんでした。(そもそも当時ファイターズだったかどうかも記憶がありません。まだ東映フライヤーズとかだったかもしれません。スワローズは間違いなく国鉄スワローズでしたが。)

当時プロ野球チームのない北海道としては、どこかを応援するなら強いところ、ということもあったのでしょうが、やはりひとつは「ON」の人気だったと思います。やはり王、長嶋という当時の超ビッグスターの影響は凄まじかったのですよ。で、大人はそれとして、子供の人気は絶対に「巨人の星」のせい?おかげ?でしょう。

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  星飛雄馬           花形満        (誰だおまえ?)


もちろんそれ以前にも、巨人軍をメインにした野球マンガはいくつかあったようですが(調べたら「ちかいの魔球(ちばてつや!)」「黒い秘密兵器」など)それらの中でも「あしたのジョー」と共に「巨人の星」を、私達小学生(やそろそろ増えてきていた「大きなお友だち」)が少年マガジンの発売を、どれほど楽しみにしていたことか 。まぁ確かに、負けてばっかりのチームに主人公を入れたら、漫画にはなりませんわな。おまけにリアルヒーローのONもいるし、漫画で勝ちまくっても、それなりにリアリティがあって、パラレルワールドの話のように感じさせてくれたものです。

とはいえ、「ちかいの魔球」という題名からわかるように、やっぱり「必殺技」としての「魔球」は欠かせなかったようです。その破天荒な魔球と、リアルな王や長嶋や川上(監督)が出てくるという、パラレルワールドチックなコーフンがありました。そして合わせ技としての「特訓」も、小学生はよく真似していましたね。当時青少年が体を鍛える道具としてよく使われていた「エキスパンダー」のバネをはずし、「大リーグボール養成ギブス」もどきを作っていた小学生を2人記憶していますw(そういえばブルーワーカーってのも結構流行ったなぁ。貧弱な坊やと馬鹿にされていた、ってヤツですね。)とはいえ、さすがに小学生でもちょっと現実的な生徒はいるもので、高学年になると大リーグボールについて疑問を抱く子が多くなってきました。(以下、巨人の星を知らない人には全く伝わらない話が続きます。)

そもそも大リーグボールは、星飛雄馬の投げる球が「スピードがあり、コントロールは抜群なのだが、球質が軽く、バットに当たると軽々と飛んでしまう」という欠点を克服するために生み出されたものです。大リーグボール1号は、その軽い球質を逆手に取り、わざとバットを狙ってぶつけ、跳ね返った球でアウトを取る、というものでした。一応ライバルの花形満が顔の正面にバットを構え、ビーンボール(故意に頭を狙った死球)ではないか?とクレームをつけたのですが、審判団の前もっての協議の末セーフだと(かなり無理筋な)説明をつけていました。花形はまた、投げた瞬間にバットを体の後ろに隠す作戦にも出ましたが、そもそも色々な特訓で、打者がどこにバットを出すかを予測できるようになった飛雄馬は、バットを狙わず普通にストライクをとる、ということで対処しました。さて、最終的に別のライバルであるアームストロング・オズマがまず一度ストライクゾーンにバットを出し、そこに投げ込んだボールをものすごい早さでバットを引き、同じコースをスイングする(見えないスイング、と言ってましたね)ことでホームランにする、という方法で大リーグボール1号を攻略しました。アホな小学生は「なるほど~」と納得したものですが、ちょっと賢いヤツはすぐに矛盾に気づいてましたね。皆さんおわかりですか?・・・そうです。花形の時の対処と同様に、「どこにバットが出るか分かっているなら、そのコースを外して投げればよい」のですw

同様に、大リーグボール2号、いわゆる「消える魔球」についても、「そもそもストライクゾーンに来た球が、地上すれすれまで落ちて、そこからまたストライクゾーンに浮き上がってくる」などという、Ωを逆にしたような、すさまじい変化をさせられるのならば、「別に球を消さなくても、変化球投手として十分通用するんじゃね?」と思っていた子どもは日本中にたくさんいたはずです。

大リーグボール3号。「アンダーハンドで超スローボールを投げ、あまりにもふわふわと飛んでいるので、バットスイングの風圧で球がバットからよけてしまう」というものでした。これについても、「バッターがスイングしないで強く息を吹きかければ、球が全部ストライクゾーンから外れて簡単にフォアボールになってしまうんじゃないか?」という、激しく簡単な攻略法に気づいた子もいましたね。

まぁそもそもマンガにリアルを持ち込むのは野暮だとわかっていますが、そういう無理筋があったにしても、「巨人の星」は面白かったです。とはいえ、その後の「侍ジャイアンツ」の番場蛮の投げる「ハイジャンプ魔球」「大回転魔球」はそもそも投げるたびに「ボーク」だと思うし、「分身魔球」はおそらく「ボールに加工する」という反則投球になるのではないか?と、登場した当初から、「巨人の星」の時より少し大人になっていた我々の間では定説になっていましたね。(アストロ球団の話はやめておきましょう。ただ、長嶋や金田が監督として完全に悪役に回っていたのはちょっと目新しかったですね。)

  

投げるかなり前にプレートから足が完全に離れている、投げる前に横や後ろを見ている、投げる前に故意にボールを変形させている・・・アウトですよねw(と思ってググってみたら、結構論争になってたようです。世の中の多くの人が違和感を感じていたんですね。)

長くなってしまいましたが、とにかく野球好きの少年達にとって「巨人の星」は一時期間違いなく「バイブル」でした。それにしても、「星飛雄馬」というネーミング、話の中では「前のめりに死んでいった坂本龍馬から取った」とされていましたが、実は「ヒューマン=人間的な」という意味だ、と何かの本で読んだ時には軽く感動を覚えました。確かに巨人の星の最後は、人生とは何か、について考えさせる終わり方でしたね。と共に、「星一徹」も、「星明子→明星」も、実に深いネーミングだと思います。原作者梶原一騎は、実はあまり野球に詳しくなかった、という説がありますが、少なくともネーミングセンスは「すごい」の一言に尽きると思います。

巨人の星」を初めとした、マンガの話だけで長くなってしまいました。が!野球についてその3に続きます。老害が思い出す、昭和のどうでもいい雑談話でよろしければ、また読んでやってください。どっとはらい

 

老害のつぶやき 野球の思い出その①

あまり大きな文字では書けませんが、よく聴くYoutubeの番組の一つに、「伊集院光 深夜の馬鹿力」というのがあります。(人気番組なのになぜ大きな声で言えないかというと、radikoとかではなく、Youtubeのいわゆる「野良動画」を聴いているからです。)

その「深夜の馬鹿力」の中に、「教えて老害さん」というコーナーがあります。いわゆる「Z世代」(を装った?)リスナーが、「老害」を自称する伊集院さんに、時代遅れになった昔のことを聞いて話のネタにする、という内容です。伊集院さんはまだ五十代半ばなので、「老害」は自虐的ギャグで言っていると思いますが、年代の近い私としては毎回送られてきたネタに「有ったあったぁそいういうの~!」とついニヤけてしまうコーナーです。

で、私自身も「老害」を自称することが多々ありますが、これはもう「還暦」を迎えたし、そもそも表題通り体も頭も能力も「ポンコツ」なので、「自虐」ではなく「自覚」なのです。エッヘン!(胸を張るところかよ。)

プライドの高い人のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

結局何が言いたいかというと、私も自分の中で一番ポンコツ化の著しい、脳みそや記憶力の活性化を目指し、この60年間の思い出などを振り返って呟いてみようと思います。同年代の方や、昔のことに詳しい方で、間違いなどお気づきの点がありましたら是非コメント、ご指摘いただければ幸いです。

さて、今年の高校野球札幌大谷、旭大高ともに惜しくも一回戦負けになってしまいました。前評判では、大阪桐蔭に旭大高がどれだけボコボコにされるだろうか?などと(失礼な)炉辺談話をしていましたが、途中までリードしていたし、逆転された後もひょっとしたら同点?逆転?ジャイアントキリング?のような場面も2回あり、(あのライナーが抜けていればなぁ・・・)十分惜しかったと思います。私自身はそれほど熱心な野球ファンでもないので、北海道代表の試合くらいしか見ないのですが、私たちの年代の子供は、かなりの割合で野球少年でしたし、私自身も遊びと言ったら野球ばかりでした。(「僕は、小さい少年の頃、熱情的な収集家だったものだ。」という、「少年の日の思い出」の一節を思い出しますね。)

小学校の時にしていた遊びとして、もっとも人気の高かったのが、放課後に小学校のグラウンドや近所の公園に集まってやる、「野球的な何か」でした。グローブとバットを持って集まって、軟球を使ってやる場合もあるし、柔らかいゴムボールを使い、素手でボールを打って素手でキャッチするなんてのもありました。(狭いところでやる場合は、三角ベースで一塁と三塁とホームだけでやっていましたね。)柔らかいゴムボールでやる時は、「ぶつけ有り」というルールもありました。ランナーが走っている時に、ボールをぶつけたらアウトにできる、というものです。一塁手とかに送球すると、素手だから良い球を投げてもすぐはじくんですよね。それでみんなどちらかというと「ぶつけ」を選択することが多かった。(あれはきっと「人に堂々と物をぶつける」ことにカタルシスを感じてもいたんでしょうね。)

その当時、誕生日のプレゼントとして、グローブやバットを買ってもらうというのが非常にポピュラーでした。バットは当時木製バットが主流でしたが、高校野球で金属バットが使われ始めた時期でもありまして、小学生4年生の時だったかな?学級のみんなでお小遣いを出し合い、学級専用の金属バットを一本買ったことがありました。今にして思えば、メーカーすら怪しいまがい物だったと思いますが、それでも他のクラスと対戦する時にはうらやましがられ、私のクラスの生徒はドヤ顔でこれみよがしに使っていたものでした。(だからって勝てたわけではありませんが。)クラス替えがあった後、あのバットは誰が管理していたのか、今となっては知るよしもありませんが、「秘密兵器」と呼んでいたあのバットは、小学生の一時期、私たちの学級の宝物でした。

そもそもZ世代に限らず、若い人たちがここまで読んだ時に違和感を感じることと思いますが、私らの世代は今とは違って、放課後学校のグラウンドを勝手に使って野球をしたり、自転車を乗り入れて走りまわったりしていても、全然問題にならなかったのですよ。(もちろん北海道の田舎だったからかもしれませんが)昨今、夕方小学校のグラウンドを見ても、ビブスをきたサッカー少年団がたまに練習しているくらいで、野球をしたりドッジボールをしたり、ドヤ顔で自転車を乗り回している生徒を見かけることはありません。多分禁止されているんでしょうね。あるいは野球をするほど生徒が集まらないのか。何にしてもちょっと寂しい感じがします。

その当時でも、いわゆる少年野球チームはあったのでしょうが、我々の回りにはそういう生徒がいなかったし、そもそも「硬球」の存在を知らずに野球をしていました。軟球も宝物でしたから、草むらになんて打ち込んだら大変です。敵味方総出で捜しましたし、たまに落ちている軟球を拾ったりしたら大喜びでした。基本C球を使っていましたが、大人向けのL球を拾ったら「何か一回りデカくね?」と感じましたし、珍しいB球が手に入ったら、「やけに固いし、これが硬球ってやつなんじゃね?」とか思っていたりしましたね。(準硬式球という扱いらしいので、全くの間違いでもありませんが。)

野球をやるにしても、当時の基本は「学級単位」の対抗戦でした。休み時間に他のクラスと話をつけ、「今日放課後〇組と試合をやるから集まれ~!」などと言って、学級の男子が集まっては対抗戦のようなものをやっていたのです。まぁ当時は生徒数も多かったので、1クラスの男子だけでも十分対抗戦ができましたから、相手がいない時には「紅白戦」のような形で野球をしていました。やっぱりその中でも「うまい」と思われている子がリーダーシップをとり、それでも何となく実力均衡になるようにチーム分けをしていたような記憶があります。ああいう自然発生的なグループ分けや、打順やポジション決めを自分たちだけでやっていたことなんかは、結構子供らの精神的発達には役に立っていたように思います。

長くなってしまったので、その②に続きます。(何となく「語り部」になってきたような気分がしますが、それにしても打っているといろいろと思い出してくるものですね。「誰得」な老害の思い出話ですが、よろしければまた読んでやってください。どっとはらい。)

実家で見つけたビンテージもといポンコツギア

先日、実家の物置で、私がまだ大学生の時に使っていた古ーいキャンプ道具を見つけました。今を去ること40年ほど前、北海道半周バイクツーリングで使っていた代物です。色々なものが出てきたのですが、とりあえず2点、引っ張り出してどんなものだか展開してみました。

その1 メーカーも分からないけどまだ使えそうなアルミのクッカー

で、このフライパンをよく洗ってから使ってみたのですが・・・普通に使えましたね。 

 (前にも使ったなコレ。日本の工業製品は世界一ィィィ!)

ヒロシさんとかが使ってる、スノー〇ークのアレとか欲しかったけど、このポンコツビンテージギアを使ってみるのも一興かな?百均で袋を探して使ってみようか。私自身は全く覚えていないけど、どなたか、どこのメーカーのものだかご存知の方いらっしゃいますかね?(ジジイ高齢者限定になりますな。)ちなみに、この時一緒に買ったのが以前も紹介したコレ↓プリムス2273 40年経っても全然大丈夫、日本の工業製品は以下略

その2 ダンロップのツーリング用テント

 (登山4人用テントと書いてありますが、無理!)

張ってみた。

 

多分ポールはアルミ製だと思うんだけど、あちこち白く粉を吹いていたように見えました。(アブねぇなおい)

 

フライを掛けました。パッと見何となくまだまだ使えそうに見えますが、やっぱりビンテージというかレトロというかポンコツというか・・・

ポンコツその1 背面の通気口がコレだけ。(内側から紐で引っ張って塞ぐ形。)ちょっとカワイイかも。それにしてもこんなのだったっけ?

ポンコツその2 床の部分と、メッシュの部分が別体で、しかも留められていないのでアリとかダンゴムシとかが、隙間から遠慮無く普通に這い上って入ってくる!

大学生の時には若く体力もあり、そして何よりも当時こんなのでも最新鋭のテントだったから、暑かろうが蒸れようが全然違和感なく泊まれていたけど、今だとかなりキツいでしょうなぁ。(そもそもカビ臭かったし。)入ってみると狭くて、対角線に使ってやっと一人寝られる(4人用ってどんだけドMなんだよ?)って感じでした。昔の登山用ってこんなもんだったのかな?

というわけで今回は、「誰得?」な画像を貼らせてもらいましたが、どうしようこのテント?メ〇カリで売れないかなぁ?骨董品として・・・ウィスキーとかの40年物だったら売れそうだけど、ムリだわなぁ。

(ちなみに、大学生の時乗っていたバイクがこちら↓)

GPz250BeltDrive(EX250C)の系譜 (コレの銀×紺のカラーリング)

何というか、ベルトドライブというだけで、特に早くもなく燃費が良いわけでもなく、曲がりやすいわけでもなく、「カワサキで、車検がない」というだけで買ったバイクでしたが、乗りやすくはありましたね。(教習所のホークⅡと比べれば、ですけど)上のテントを積んで北海道の東半分をぐるっと回った、何ともはや懐かしいバイクです。

(いや、そこまで大げさなものでは・・・)お後がよろしいようで。



 

 



 

 

教職員組合ってのがありましてね(慚愧と懺悔その2)

前回の続きです。相変わらず放課後の職員体育ぐらいしか活動らしい活動をしていなかったのですが、それでもバドミントン、野球、バレーボール、サッカー、バスケットボールと、いろいろな球技(卓球を除く)や、冬はスキー大会(はあまり出なかったけど)など、ストレス解消にはとても良い福利厚生行事として楽しんでおりました。

まぁどことはいいませんが、その組合を抜けることになった時の学校が、いわゆる「荒れた」学校でして、見た目は厳つい私ですが、朝起きると胃がキリキリ痛み、吐き気がとまらないようなことがよくあり、何回か体調不良で学校を休んだことがあるほどでした。細かく上げればキリのないほど、校内校外で虞犯行為、触法行為を繰り返す生徒がいて、その都度授業を自習にして対応したりして、普通に勉強したがっていた生徒には大変申し訳なかったと思います。

考えてみれば、三十数年の教師生活を振り返り、思い出したくもない年というのは幾つかありますが、何とかその疾風怒濤の年月を乗り越えてきたことで、教師生活で色々嫌なことや凹むことがあっても、「あの時よりマシ」と考えることが、心の支えだったように思います。もちろんそんな経験はしないで済む方がずっといいですし、そもそも「おまえ等がだらしないからそんな生徒になったんだろ。」と言われればそれまでですが、今は太っといブレザーのズボンを「ボンタン(死語1)」に仕立て直してくれたり、短ブレ(死語2)の背中に暴走族的なよく分からない文言の刺繍を入れてくれるような店もなくなったので、物理的に若干今の方が楽かもしれませんね。

さて、そんなこんなで先生方が毎日青息吐息で何とか授業をし、私も含めてたまに体調不良や精神的不安を抱えて苦しんでいる中で、前述の職員体育を数少ない楽しみの一つとして過ごしていたわけですが、そんな中で、特に体調不良でも精神的不安でもないのに、かなりの頻度で休む先生がいました。ただでさえ授業数がキツい所に、同じ学年だったので、その先生の自習監督がちょくちょく回ってくるのです。なんでその先生が休むのかというと、「組合の役員」だったので、その会合に出て行くからなんですね。(役職は伏せさせてもらいます。)週1回とまでは行きませんが、1~2週に1回くらいの割合で会議に出ていくので、残った者としてはたまったものではありませんし、そもそも組合員じゃない先生(「非組」と呼ばれていましたが、今や「非組」の方が多数派になっているのも時代の流れですね。)は公然と「なんで組合の会議なんかに出てるヤツの尻拭いしなけりゃならないんだ!」と、自習監督を断っていました。まぁ気持ちはわかります。

ところでこの時期、私も遅ればせながらパソコンを導入し、ISDN(死語3)で接続してネットスケープ(死語4)でつないで、ネットサーフィン(死語5)を始めました。いろいろとあんなサイトやこんなサイトや、イケナイサイトなんかにつないで面白がっていたのですが、その中で「日教組」やら「北朝鮮」やら「社会党(死語6)」やらについて見ていくうちに、色々な疑問が浮かびあがってきました。もちろん、今みたいに「ググる」と何でも出てくるわけではありませんでしたが、それでも断片的な情報をつないでいくうちに、「おかしいんじゃないか?」という違和感がどんどんわいてきて、関連して「朝鮮進駐軍」やら「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」やらについての情報を読んでいき、疑問が確信に変わりました。はい、そうです。ここに一人、立派な「ネトウヨ」が誕生したのです。

思い返せば、自分が小学校や中学校の時の先生がさかんに「日本は戦争で悪いことをしてきたから中国や朝鮮の人には申し訳ないと思わなければならない」だの「ハングルは世界で最も優れた言語だ」などという、今にしてみれば戯れ言を、何かと言えば授業の余談としてぶっ込んできていたのです。まぁ老害である私の小学生の時には、まだ学生運動が行われていて、何だかよく分からないけど急に放課後活動がなくなって下校させられ、「先生方がストやるんだって」とか言いながら嬉々として帰っていったことなんかもありましたから、当時の学生や先生の左傾化は甚だしかったのでしょう。そして何より、何となく「先生が言うんだからそうなんだろう」と、立派な自虐史観を植え付けられていたのです。

さて、そんなこんなで「組合」というものに疑問を持つようになったところに、決定的な出来事がおきました。その「組合の役員」の先生に、私のクラスも授業を持ってもらっていたのですが(まぁ何度自習監督に行ったことやら)ある月の職員会議の中で、校内研修会のその先生の授業を、担任の私に何の断りもなく私の学級で行う、といきなり言い始めたのです。寝耳に水の私は「聞いてないよ~!(とは言いませんでしたが)」

 (・・・合掌)

「今初めて聞きましたが、どういうことですか?」と質問したところその先生に、「私は担任持っていないんだから仕方ないでしょ!」と逆ギレされたのです。(当時三十代前半だった私より、多分十歳くらい年上だったと思いますが、前述の分会長同様、「組合の役員」であるその先生は、「会議に出ることが多いから」副担任だったのです。)たった一言、前もって「研究授業で先生のクラス使わせてくれるかい?」と聞いてくれればよいだけの話なのです。なぜその一言が言えないのか?自分より若いと思って嘗めてんのか?!今の私だったら「そんな非常識な話があるかコラ!これがおまえらのやり方か~!」

とケンカできたかもしれません。でも当時、相手は年上だし、チキンだった私は不承不承ひっこみました。そしてその瞬間に「こんな馬〇が役員やってエラソウにして、会議と称して休みまくってる組織になんて居られるか!」と思い、次の日当時の分会長に申し出て、組合を脱退することにしたのです。

労働条件が劣悪だった時代に(今でもですけど)組合活動は一定の成果を上げていたのだろうとは思います。そしてやめた理由は、組合と言うより一個人に対する憤りがほとんどですから、組合そのものに対して、疑問はあれど含むところはあまりありません。しかしながら、最初の学校で、27歳の時に分会長をさせられ、当時の校長と延々日の丸がどうの戦争犯罪がどうの、全然正しいことを知らないくせに、組合の先輩から聞かされた内容だけを頼りに、理屈にもなっていないたわ言を垂れていた自分を思い返すと、慚愧の念に堪えません。あの時の校長先生には、本当に申し訳なかったと思います。お恥ずかしいかぎりで、この場で懺悔させていただきます。無知の極みでした。

(考えたら、あまり中学生には読んでほしくない内容でしたね。次回はもっとライトな内容を書かせてもらいます。)

 




教職員組合ってのがありましてね。(慚愧と懺悔その1)

37年前、初めて勤めた中学校。まぁ最初に登校した時は緊張しましたなぁ。4月1日の最初の朝の打ち合わせで、とっちらかって何言ってんだかわからない様子でゴニョゴニョさえない自己紹介をし、何言ってんだかわからない最初の校長の施政方針演説?的な物が始まり、やがて学年や分掌の発表になった時、いきなり先輩教師の一人が「やめろやめろ!誰も聞いてないぞ!」と自席から大声を出したのにビビったところから、私の教師生活は始まりました。当時は何のことだかわからなかったのですが、次の年から「主任めいか(漢字を忘れました。「めい」は名だと思うのですが、「か」は加?課?何にしてもググってもでてきません。)」をする校長への抗議だということがわかりました。その当時、「主任制反対」「日の丸・君が代(略して日の君)反対」が、組合の活動として最も日常的なものでした。

さて、いきなりそんな罵声にビビり(ちなみにその先輩は、後に大校長になり、今でもお付き合いさせていただいていますが、当時は怖くて近寄り難かったです。)わけのわからない状況で昼休みになりましたら、同じ学年の先生に「ちょっと来て」と呼ばれ別室に連れて行かれました。そして、1教室びっしりに先生方が集まっていて、何だかよくわからないままに「組合員」にさせられていました。正直ノンポリもいいところだったので、「よく分からないけど、ほとんどの先生がいるんだから、まあそんな悪いことにはならないだろう。」くらいのぼんやりした気持ちで、特に拒否するわけでもなく(というか例の先輩が怖くて拒否も出来ず)そのまま組合員になり、教師生活が始まりました。

 

当時、その学校の組織率は多分8~9割くらい組合員だったと思います。ハッキリ言って組合という組織は、聞いたことはあるけど、「労働条件向上のために交渉とかする団体」くらいのイメージしかなくて、具体的にどんな活動をしているのか全くわからなかったのですが、まず先輩から何を言われたかというと、「職体(教職員による体育大会)があるから、春はバドミントンから始まるんで、放課後練習するから残ってね。靴とかジャージとか持ってきて。」ということでした。私は走るとかは苦手ですが、球技は卓球以外は大好きだったので、「こりゃあ楽しみだワイ❤」とばかりに、毎日部活が終わってから学校開放が始まるまでバドミントンの練習をし、同僚の若い先生と帰りがけ一緒に飯を食べたりして、とても気楽になじむことができました。また、先輩の先生方も、職体が終わった後欠かさず飲み屋で反省会、というか単純な飲み会を開いてくれ、いろいろな話を聞かせてもらって、とてもいいコミュニケーションがとれていたと思います。組合費は取られるし、飲み会の回数は多いしで、今考えれば結構な出費だったわけですが、それを補って余りある楽しみをえることができました。

いまでこそ私は、まぁ右翼と言っても良いくらいの思想傾向がありますが、当時はよく分からないまま、今は亡き社会党を支援し、勤務時間が終わったら「オルグ」と称して会合に出かけたりビラ配りをしたりという、今にして思えばまぁ赤面の至り。職員体育という甘い餌で釣って、構成員を増やしていくなんぞ、いわゆる「お左翼」の常套手段に軽ーく飲み込まれていたのです。(※もちろんこれは世間知らずでノンポリの私自身の責任です。)けれども、やはり職員体育は楽しかったし、先輩の組合員の先生は、夏休みに海水浴やキャンプ、冬には温泉&スキーなど、楽しい催しをどんどん与えてくれたのです。福利厚生という面では、確かに「組合」は魅力的でした。

ところが教師になって4年目、やっと卒業生を出し1年生を担任し、その生徒達を2年3年生と持ち上がって担任するんだろうなぁ、と思っていた矢先に、「引き受けてくれる人がいないから」という理由で、27歳の時に「分会長(各学校の組合の責任者?見たいな役職)にさせられてしまったのです。その前の分会長が、同じ部活動の顧問をしていて、とてもお世話になったので、とても嫌だったけれど引き受けざるを得ませんでした。今はどうか知りませんが、分会長は会議とかで校外に出ることが多く、担任をやらない、というのが不文律でした。今はもう定年間近なので、この2年間は副担任をやっていますが、担任から外れたのはこの分会長の時と、教科の持ち時間数の関係で、週23時間国語の授業を持った時だけです。(これだけ授業を持つと、担任をして学活や道徳を入れると空き時間がなくなるんですよ。)まだ若くて元気もあり、何より1回卒業生を出すと担任が面白くなってくるもので、当時は何だか理不尽さを感じずにはいられませんでした。

それでもよく分からないなりに、校長と「団体交渉」をして卒業式で国旗をあげないよう、あるいは国歌斉唱をさせないよう(起立もしませんでしたなぁ。あー赤面)3~4時間も膝詰めで話し合ったり、5月1日にはメーデーと称してプラカードを作って行進したり、「動員」を掛けられて北海道庁の階段に、何をするわけでもなくただ数合わせのために半日座り込みをしたりなどという活動をしました。次の年に分会長を代わってもらった時には、本当にほっとしました。

ツイート画像20枚あり。君が代のページを隠すおかしな先生の授業を受けた方々が多くて驚いています。 #密告したかった授業 #日教組撲滅 #全教撲滅  #日教組 #教科書 - #野党とマスコミは敵の手先

↑今だにこんなことやってるんですねぇ。探したら他にもたくさん出てきました。

とはいえ、一組合員としての活動は(基本職員体育が中心ですが)続けていたのですが、ある時ふぃっと組合に嫌気がさし、いきなり組合を脱退することにしました。長くなってしまったので、そのあたりの経緯はまた次回書かせてもらいます。駄文長文失礼しました。(今回はギャグも茶々も入れず、単純な思い出話を書きましたが悪しからず。多分次回も。)

 

 

 

 

敗北感の漂うキャンプその2

1回めのお風呂をいただき、ちょっと昼寝をして、さて焚き火をしようか、ということになりました。昼食が遅めだったけれど、お風呂の効果か小腹がすいてきたので、米を炊き薪で鉄板を温め、おかずを焼いてみることとします。この東京キャンプの焚き火台、炭火で肉を焼いたことはありますが、薪での調理は今回が初めて。というかそもそも薪を使っての焚き火自体がお初になります。フェザースティックを作ったり、ファイアスターターで着火したり、ということもやってみたかったのですが、ちょっとチャレンジしたフェザースティックはなかなうまくできず、当然ファイヤスターターでの着火も、麻糸も何もないので着くはずもなく。残っていたゼリー状の着火剤を使い、横着して直接薪をくべてみました。・・・まぁ着きますわナァ。別に「何をしてはならない」はあっても、「何をしなければならない」という決まりなどないのがソロキャンプのゆるい所だと思いますが、なにせほら、「ヒロシのぼっちキャンプ」を見てコーフンして出てきたものだから、無骨感がないというか、敗北感が漂うというか。 

 

森林香に火を付け(容器がないのでとりあえずウッドストーブに乗せてみた)野菜と舞茸を炒め、醤油をかけてまずはいただく。(野菜を先に食べると太りづらいとか・・)

こんなもんでも外で食うと妙に美味いですねぇ。つい滅多に買わない缶酎ハイを飲んでみたりして。米はバーナーで併行して炊いています。蒸らしつつ、餃子を焼きます。

  

 

餃子定食のできあがり。(タレは醤油+ごま油+ほりしに赤→まぁまぁ)もうちょっとキレイに並べれば、少しは見栄えが良くなるのでしょうが、何せほら、飢えてるものだからそれどころではなくて。かなりの勢いでかきこみまして、人心地ついたところでテントに入り、ぼんやりと外を見てみますと・・・何だか落ち着く。

 (もうちょっと整理してから撮れよなぁ)

しばらくゴロゴロしながらYouTubeを聞き、薄暗くなってきたところで焚き火を突っついて過ごします。

・・・時を忘れますねぇ。森林香の効果なのか、蚊が寄ってくる気配もあまりなく、半袖七分ズボンサンダル履き(100均)でも、刺される様子はありません。この日は気温も30度を越えることなく、風もほとんど無く陽がかげると本当にちょうど良い感じで、ただひたすらボーッと焚き火をつついていました。

 

ただ燃やすのも何だから、トウキビなんぞ焼いてみたのですが・・・なんかすげぇうまそうにできたんですけど?(実際は少し早かったのですが)ちょっと青臭い感じで、でも甘いトウキビを頬張ったところで、重大なミスに気づきました。なにか?いや実は、夜焚き火で肉を焼く予定だったんですよ!ところが餃子定食と、そしてとどめのトウキビで、完全に腹一杯になってしまいました。ソフトクーラーには氷が入っているわけでもなく、かといって今肉を食べる気にもなれず。体が煙り臭くなってきたので2回めのお風呂に入り(10時半、キャンパーは11時まで入れます。)、風呂から戻ってくると睡魔が襲ってくるという状況なわけでして。で、結局、朝っぱらから肉を焼いて食べることに決定。あとは野となれ山となれ、おやすみなさーい。

(ピロピロピッピッピー←ドラクエの朝の音楽)はい、おはようございます。年寄りの朝は早いと言いますが、私は睡眠障害の気があるのか、普段は3時~4時くらいに目が覚めてしまいます。さて、この夜は、テントの前面をメッシュだけにしたままで、シュラフをかけてちょうど良い感じで眠ることができたのですが、それでもやはり疲れていたのか、普段よりかなり遅く5時くらいに目が覚めました。(一般的には十分早い)マットの上でしばらくYouTubeを聞き、6時頃にのそのそとテントを出、トイレに行き戻ってきてから、まずは目覚めのコーヒーを飲みます。

 (さすがに忘れ物はなかった。)

今日はこの後、キャンパーは9時から入れるというお風呂に、3回めとして入ってから帰るつもりなので、焚き火をして煙臭くなっても大丈夫だろうという目算のもと、ゆったりと準備をして米炊きと焼肉にとりかかります。朝っぱらから焼肉かよ?と、冷静に客観的に見れば、還暦ジジイのとるべき行動でも、日本の正しい朝食(©椎名誠)でもありませんが、なにせほら、腐ってしまってはもったいない。(結局はケチくさいだけ)背に腹は代えられません。では、焼きますか❤肉っ!

(一応健康も考えてモヤシから食べます。)

ご飯も炊けてまいりました。

 (ドキッ!付録だらけの水泳大会キャンプ道具)

焚き火台はもうすでに片付けたので、ウッドストープで焼きましたが、いやいやこの暴力的な絵面。朝の7時半ですが、まさに飯テロ。もう圧倒的に腹が減って参りました。

 

炊きたての米、焼きたてのハラミ、あつあつの味噌汁(あさげ)・・・(還暦ジジイの)朝食としては明らかに正しくないこの三位一体の焼肉弁当、瞬殺で平らげました。(お薬も忘れずに飲みまして)プハーっ。シーハーシーハー。(©東海林さだお

のんびりと撤収をして、ちょうど9時になったのでとどめの温泉。焚き火臭さを洗い落とし満ち足りた気分で帰路につきました。しかし、車だと楽ですねぇ。何となく敗北感というか、背徳感というか、後ろめたい気分が少しつきまとうイージーなキャンプでした。もう一つ敗北感が。環状線を通って帰ったのですが、帰り道にあった、今まで入ったことのないアウトドアショップ(ホーマック併設?)に何となく入ったら、袋に入って割り易そうな薪と、専用容器付き森林香が売っていたではないですか!別に秀岳荘に文句はないですが、ここで買っていけば良かった。特に森林香。(専用容器に2巻ついていた。)

後日談。帰ってからも、何度風呂に入っても、そこはかとなく焚き火の臭いがするのでおかしいなと思っていたら、メガネににおいが染みついていたことに気づきました。「燈台下暗し」とはまさにこのこと。次回は自転車で行けたらいいなぁ。お読みいただき、ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

 

 

敗北感の漂うキャンプその1

なんといいますか、前日まで全然そんな気なかったんですよ本当に。なぜそんなことになったかというと、全てアマ〇ンプライムのせいなんですよ。というか、することもなくぼーっとア〇ゾンプライムを見ていたら、「ヒロシのぼっちキャンプ」がアップされていたんですよ。ついついシーズン1を3時間近く見てしまい、もう何というか、キャンプに行きたくなって居ても立ってもいられなくなってきたんですよ。でも次の日午前中行かなければならなってしまった会議があるんですよ。そのまた次の日は休みを取っていたんですよ。だからその午前中の会議さえなければ(しかも別に私でなくてもすむような会議)自転車に荷物を積んでどこか行けるわけですよ。ウィークディですから、たぶんだいたいのキャンプ場は入れると思うんですよ。でもなぁ、午前中クソ面白くもない会議に大変重要な外勤に出かけて、家に戻ってそこからまた自転車に乗り換えて、となると甚だ面倒だしなぁ。何か良い手はないかなぁ・・・そうだ!自転車じゃなくて自家用車で会議に行き、家に戻らず直接キャンプ場に向かえばいいんだ!時間的なロスもないし、きっと2~3時くらいには着けるだろう。自転車キャンプのためにセコセコ小遣いをつぎ込んできて、ここで自家用車を使うとなると、何だかすごく負けた感じになってしまうけど、背に腹はかえられない。そうだ、そうしよう!

・・・ということで、とりあえず使いそうな物を片っ端から車の荷台に積み込み、勇み足で(©少年カムイさん)外勤に行き、ほとんど上の空でものすごい集中力で会議に臨み、終わったら一目散に車に乗り込み、スーパーで食料品を買い込み、さらに白石の秀岳荘に寄って森林香と薪を購入し(※森林香が結構高くてビビったのですが、10巻単位で売ってくれました。ありがたやありがたや。さらに後述しますが、まぁ一束1000円の薪のゴッツいこと。あれはハードキャンパー向きだわなぁ。)グーグルマップに散々騙されながら(だから何としても高速に乗せようとするのやめろってんだよ!)1時間半ほどかかって到着したキャンプ場がこちら。(恵庭温泉ほのかキャンプ場)

https://yudokoro-honoka.jp/eniwa/camp/

 

あまり遠くはなく、何より温泉なんてかなり久しぶりなので、一石二鳥とばかりに選んでみました。ファミリー向けで、サイトがかなり狭いのでギュウギュウ詰めになる、という評価が多かったけど、まぁ平日なら何とかなるだろう、と来てみれば怖い蟹こはいかに?パッと見たところ、テントが5つしかありません!よしよしとほくそ笑み受付を済ませます。ウィークディなので入場料+入湯料1830円(大人)+テント1張500円、計2330円。ちょっと高めに感じますが、お風呂に入り放題!ならば全然納得のお値段です。とはいえ確かにサイトはこぢんまり、という感じです。

温泉施設に隣接しています。サイトの一番手前側から、奥に向かって撮ってみました。中央奥に小さく見える黄色いテントが私の物ですが、あの位置がもっとも奥の場所になります。(ちなみに右手奥に見えるテントには、20代前半とおぼしき女子3人組がいました。・・・なんの進展も交流もありませんでしたがね。残念ながら。)

 

水場とトイレは温泉の別館にあり、24時間使えます。トイレもきれいでした。キャンプ客は腕に赤いテープを巻いてもらい、それを見せれば何度でも入浴できるシステムです。さて、受付を済ませた後、最も奥まった所でテントを張ります。

 

テントを張った段階でもう2時半、急いで遅い昼食として焼きそばを炒め始めたのですが、またもしくじり。1袋しかいらないと思い、あまり見ないで買った焼きそばが、「あんかけ焼きそば用」のものだったのです!(つまりソースも何もついていないただの蒸し麺)仕方がないので塩こしょうと醤油をかけて食べたのですが・・・醤油って偉大ですねぇ。違和感なく普通に食べられましたわ。

(素直にマルちゃんのを買えばよかった。)

とりあえず、腹膨れれば目の皮たるむとか。食べ終わると眠たくなってきたので、眠気覚ましとばかりに、買ってきた薪を割っておこうと思い、バトニングを始めました。以前行ったキャンプ場で買った薪がデカすぎて(腕がなかっただけかもしれませんが)モーラナイフでは文字通り刃が立たなかったので、ついポチってしまった、安くて結構ゴツめのナイフで挑戦してみました。↓

 

 
 

黒くてカッコイイと思ったのですが、案外割りにくい。薪の中の半分くらいは簡単に割れたのですが、残りの薪がゴツいだけでなく、やたらに固い。(これがいわゆる広葉樹の薪なのか?)しかも木自体がねじくれていて、真っ直ぐ刃をいれたつもりでも、何やらあちこちに持って行かれて、気持ちよくパカーンと割れてくれない。

 

仕方がないので割れるだけ割って、残りは丸ごと乗せてそのまま燃やすことに決めたころには、もう汗まみれになっていまして。一休みして温泉に入ってくることにしました。快適なモール温泉の露天風呂に入り、魅力を発揮する場面もないのにお肌がスベスベになってまいりましてよ奥様❤さっぱりしてテントに戻ると急激に眠気が増してきまして、ちょいと昼寝をすることにしました。で、目覚めると6時半になっていました。まだ陽は高く、気温も高めですが焚き火を始めることにした・・・というところで、ずいぶん長くなってしまいました。続きはその2の方で。どっとはらい

 

 



  


                     



 

タト食反完璧版?

夏休み前の3連休・・・ではありますが、例によってそのうち2日は部活がありましてね。(まぁ雨だったから諦めもつきますが。)「何もせず 休みの消える 部活かな」とかボヤキながら、3日めやっと雨があがり、子供らもそれぞれ出かけたようで、「あるときおもひたちて、ただ一人チャリよりまうでけり」とばかり、タト食反に出かけることにしました。(例によって例のごとく発寒川河川敷です。自転車で行くにはちょうど良い距離で、わりと眺めもキレイめなので、つい足が向いてしまいます。夏休み中にはまた別の外飯、というかチェアリング?に良いところを探そうと思っています。)

さて今回は、今までの反省を踏まえて、「使わないものも、忘れ物もない必要最小限過不足無しの道具で」を目標に、持ち物を絞りまして、バックパック1つだけに納めて出発しました。(物はワークマンの「ジョイントバックパック エキスパートエディション」5,800円ナリ)曇り空で涼しかったので、タープとポールは持っていかないことにしたから、かなり軽減化できました。

 

チェアリング、のつもりでしたが、着いてみるとちょうど良い腰掛け場所があったので、一応持ってきていたダ〇ソーの110円折りたたみ座布団マットを使うことにしました。(この時点で、チェアリングのつもりで持ってきていた、ヘリノックスのチェアを使わないことが確定したので、すでに一敗なのですが。)

 

米を浸水させつつ、道具をあちこち広げます。今回は必要と思われる道具だけを取り出し、別の入れ物にまとめてきました。(昔ゴルフに行っていた時使っていた、ツアーステージの小物入れです。もう何年もゴルフに行っていないし、多分もう行かないし、全く使ってもいなかったので流用してみました。)でも、この段階で折りたたみまな板、調味料、トング、フォークが不要だったので、まぁ2敗めってとこでしょうか。)

 

固形燃料で自動炊飯させつつ、おかずの準備をします。大メスティンの底にレトルトカレーのパックを入れ、温めつつチルド焼売を蒸す、という戦法です。同時調理というほどのものではありませんが、まぁうまくいくはず。(ただし、み〇しのに餃子カレーはあるけど、あまり焼売カレーは聞いたことがないが、そっちの方が大丈夫か?)

YouTube辛坊治郎のラジオ番組を聞きつつ、米の炊き上がりを待ちつつ、ボーッと川の流れを眺める還暦ジジイ)

さて、米が炊けたようなので、焼売を乗せまして、その上からカレーのルーを、「それはもう、たーっぷりかけていきます。」(by少年カムイさん)

 

 

・・・相変わらず「映えない」画像ですが、間違いようのない味ですな。桜の樹の下には屍体が埋まっているのですよ。カレーのルーの下には焼売が埋まっているのですよ。

(味をしめての使い回しがひどいなどうも。)

ワシワシとかきこんで思ったこと。「焼売だと味があっさりめで、カレーに負けてしまう感じがする。」やはりカレーに対抗するなら、強力な餃子を選ぶべきであったな。また一つ賢くなった。次回は餃子カレーにしよう。まぁ「スタッフがおいしくいただきました」から全然大丈夫だけどね。(※「全然」は否定形で受ける、という話もありますが、ググると「全然大丈夫」とかOKだそうです。「ううん、悪くなかったよ。体は全然丈夫だったよ。」と「夏の葬列」の中の子供も言っていますし。)

さて、使わないのに持ってきたものがいくつかありましたが、鬼門の食後のコーヒーです。でも今回は、豆もミルもドリッパーも持ってきてます。忘れ物なし?カンペキ?!

 

・・・カンペキだ。ドヤ顔でコーヒーを飲みつつ、涼しい川辺でマッタリと時間を過ごし、さて帰りますか。(「忘れ物なし」だけでこんなにドヤ顔するなよなぁ。子供じゃあるまいし。)そうだ、帰る途中でコーチャンフォーに寄っていこう。バックパックにゆとりもあるし。ということで本屋について、入店しようとした時に気づきました。

マスク忘れたぁ~!

・・・どうしよう。ええい、ままよ!(と、「私は一切しゃべっていませんよ~」とのアピールで、口を真一文字にして歯を食いしばり、足早に店内を駆け巡る還暦ジジイ。お読みの皆さん、感染拡大の中、大変申し訳ありません。)やっぱり「忘れ物なし」とはいきませんでした。残念!

で、音速で買って帰ってきた本がこちらの2冊。

 

久しぶりにちゃんとした本を買いました。(国語の先生なのにネ、ヒソヒソ)さて、しばらくこれらで楽しませてもらいます。どっとはらい

 

 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

主体的に学習に取り組む態度?なにそれおいしいの?

(以下、完全に時代に取り残された老害ジジイのぼやきです。そもそも中学校の評価評定に興味のない方には全く需要のない、恨み節そのものですので、読んで気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。特に意識高い系の教育関係者の方々は、スルーしていただけると有り難いです。)

さて、去年まで中学校の国語の通知表は、他の教科と違い観点が5つありました。すなわちその①「関心・意欲・態度」その②「話す・聞く力」その③「書く力」その④「読む力」その⑤「知識、理解、技能」という5つです。(他の教科が4つだったのに、なぜか国語だけ5つあったのですよ。)ですから、定期テスト以外のもので、その5つの観点の資料を集めるのが、結構大変でした。それが変わりまして今度から全教科3つになりました。曰く、その①「知識・技能」その②「思考力・判断力・表現力」その③「主体的に学習に取り組む態度」と。

で、ですね。5つから3つになったのなら、楽になったんじゃないの?と思われるかと思いますが、この③の「主体的に学習に取り組む態度」ってやつが、どうもくせ者、というか訳が分からない。せっかく定年を迎えるってのに、最後の最後に嫌がらせのように新しい抽象的な?ものをぶっこんでこられて、甚だ迷惑としかいいようがないのですよ。(ここから延々と、文○省に対する恨み辛み逆ギレ怨嗟が続きますし、「意識高い系」の国語の先生は、「いまごろになって、何言ってんだコイツ?レベル低すぎて草」としか思わないでしょうが、悪しからず。不愉快な方はそっ閉じ推奨。)


「主体的に云々」は、以前までの観点で言うと、「関心、意欲、態度」に近い項目と思われますが、教員になってからずっと今まで使ってきた、由緒正しい?「関心、意欲、態度」関連の評価の材料について、ほとんどの内容でNGが出されています。何回も述べていますが、私自身はポンコツで、新指導要領もさらっと目を通しただけで、くわしいことはわかりませんし、あまり知ろうという意欲もありません。ただ教務関係の校内研修会やら、管理職からのお達しによって、断片的にこんなイメージをもっています。

その1 「ワークやノートを提出させて、やってある分量やノートのまとめ方の正確さ、キレイさなどを、主体的に云々の評価評定資料とするのは趣旨から外れる」とのこと。いや、正直なところ、「○○ページから○○ページまでワークをやっておいで、点検するから。」は、それこそ教師になってからずっとルーティーンでやってきました。確かに、テスト直前になって、ワークの模範解答が配られてからアリバイ作りのように、自力で解くでもなく大急ぎで「答えを写すだけ」のワークを、ドヤ顔で提出されても「良い態度」とはいえませんわな。ただし、何パーセントかは必ず居る、「写すことすらやってこない、あるいは提出もしない」生徒を、「意欲がない「態度が悪い」と見るのは間違っていないと思います。つまり、「あまりプラス評価の当てにはならないが、マイナス評価の当てには絶対になった」のですよ。何よりも点数化するときに、ある程度基準を明確にすることができた。それがダメだと。さて、何を使えばいいのか。(※ということで、今年からワークを廃止し、単元別業者テストを導入してみましたが、これもちょっと使いづらい。知識と思考の資料はやたらふえましたけれど。そもそも国語という教科は「勉強の仕方が分からない」と生徒がよくボヤくのですが、ワークがなくなって生徒が勉強法で困ってる空気をひしひしと感じます。テスト前にワークだけやって終わり、というのも困ったものでしたが。)

その2 「継続的な取り組みと、その変貌を評価に活かせ」的なことも言われましたな。何かの材料で評価するのでも、1回で判断するのではなく、「粘り強く学習にとりくむ」ことでその材料についての理解や意欲的な取り組みが深まったか、強まったかどうかを見ろと。そのためには例えば再試や追試をどんどんやれと、そういうことらしいです。(まぁこれはうちの管理職が言っていたことなんですが、どうなんでしょうかね?)で、やってみたわけですよ。例えば漢字の小テスト。前もって出す漢字の範囲を指定し、練習用のプリントを配り、その中から出題して採点するわけですが、当然練習なんてしてこ生徒生徒がいるわけです。そして10点満点の2点とか3点とか取るわけです。そこでお達しに従って、希望者には同じ問題で再テストをする、と宣言し、次の時間に「希望者」に再テストをしたのですが、どうなったと思います?

はい、これがこっちの望む2点とか3点とかそういうレベルの子が、全然希望してこない!むしろ7点とか8点とか、あるいは9点の子ばっかり再テストを受けたがる。

だからといって、点数の低かった子を指名して「再テストを受けろ!」なんて言おうものなら、「点数が低かったことをみんなにバラすつもりざますか!プライバシーの侵害ざます!差別ざます!qあwせdrftgyふじこlp;@:「」!」・・・とかなるのが目に見えていますわなぁ。つまり、再テスト受けようなんて思うのは、それこそそもそも「意識高い系」の生徒ばかりなんですよ。

その3 まだまだあるのですが、長くなったのでこれで最後にします。何やら、いろんな提出物には「振り返り」を書くスペースを付けて、その内容を読んで次回への取り組みの意欲や、次に活かせるような自己分析を評価に活かせ、とな・・・

あのねぇ、生徒は意外とそういった方面には利口なので、この「振り返りの内容は評価評定に使います」と知ったなら、それなりに殊勝なことを書いてきますって。結局は「どういう内容を書けば先生にウケるか」がわかっている、ずるがしこいお利口さんの生徒は、心にもない反省や振り返りを書いてきますよ。(というか、自分が生徒だったら絶対にそうします。ある意味国語的能力の発揮とも言えますが。)さらにそれをどう判断して、どう点数化すればいいのでしょう?定年間近のジジイにはわかりませんわ。

ということで、時代について行けないジジイの戯言というかボヤキをつらつらと述べてきました。いえ、わかってるんです、こんなボヤキはとっくの昔に議論されてきたであろうことを。「そんな話はずっと昔に通過した内容だ」と言われるであろうことを。

でもねぇ、わからんものはわからんのですよ。ならぬことははならぬものですよ。

あいづっこ宣言」各種ダウンロードはこちらから | 会津若松市

・・・まったく訳のわからない話になってしまいました。同意してくれる「意識低い系」の国語の先生が、少しは居てくれることを切に願います。(こういうのを「同病相憐れむ」というのでしょうか。)どっとはらい